未分類,西野順治郎

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初めに 今回、西野順治郎氏と浜田中(ひとし)中将、第39軍参謀兼タイ国日本大使館附武官について取り上げます。 戦時中のタイに於いて、浜田中将より中村明人(あけと)タイ国駐屯軍司令官の方が有名です。 なぜなら、既に書いたことですが、中村明人司令官については「メナムの残照」の筆者、トムヤンテイ女史が尊敬する軍人のモデル小堀として取り上げているからです。 しかし、西野さんは、自らの自叙伝の中で中村明人司 ...

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1945年(昭和20年)8月10日、日本政府は、同盟通信社(戦後共同、時事通信社に分割)を通じ、連合国が発表した降伏条件を示すポツダム宣言を受諾する意向を伝えました。 タイの新聞は、このニュースを翌11日の朝刊で大々的に報道しました。翌12日山本熊一駐タイ日本大使は、ポツダム宣言の受諾決定をタイ政府に通告しました。これは、日泰攻守同盟条約に基づくものであったが、タイ政府は通告が遅いと不快感を示しま ...

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この阿波丸は、2,000人の外務官僚や民間人及びその家族を乗せて、戦時中の船では珍しく安全を約束されて、堂々たる照明を付けて祖国に向かったのであるが、4月1日夜アメリカ潜水艦の魚雷を受けて一瞬にして沈没したのである。 そして、アメリカ艦に救われたコック長1名だけが生き残ったのである。 4月7日の米国政府の公表では、同船は予定航路を外れており、しかも照明が不鮮明であったなどと伝えられたが、日本側はこ ...

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今回から2回にわたり、西野さん家族が阿波丸に乗船しなかったため、災難に合わなかったという出来事を西野さんの書物より紹介します。 × × × 民間の所有する商船は船舶運営会の指揮下に置かれ運用に供されていた。 このため、世界第三の商船王国を誇った日本の商船隊も戦争の犠牲となり、全滅に瀕していた。 たまたま1945年初めに、交戦国間で中立国を通じて、敵国に抑留されている捕虜や民間人に慰問品を送る話がま ...

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著者は西野順治郎さんと長い交流の中で、阿波丸のことを何度か話題として聞いたことがあります。 それだけ関心のある話として脳裏にとどまっていて、他の人に話さずにはおれなかったからでしょう。 戦争中の体験として、まさに生死を分けた出来事だったからです。 その事件は、敗戦ムードが漂う昭和20年3月頃の話です。 以下、西野さんの書き物を基に話を進めましょう。 × × × × 1945年に入り、戦局は日本にと ...

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  冨田先生は大学でタイ語を教えていた頃、学生に対して「タイには西野順治郎という元在タイ日本大使館員で、現在商社マンをしている人がいる」と話していました。 これは冨田先生が、西野さんの能力を認め尊敬していたから自慢話として話題にしたのでしょう。 実はこのような話、友人として著者と懇意にしていた澤 武氏が語ってくれました。 澤氏は、大阪外国語大学の学生時代に冨田先生から「タイには西野順治郎 ...

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初めに 加藤郁郎氏は、昨年の8月に肺炎で昇天しています。そのことを知ったのは最近なので、急遽追悼の意味も含めて、加藤郁郎氏と西野順治郎氏について紹介します。 それは著者が来タイした頃の話で、ゲイソントラベルの加藤郁郎氏が、西野さん、アマリングループの松田嘉久氏、サリカグループ、の出会いの話です。 加藤郁郎氏の紹介から始めましょう。 1980年、22歳の時に来タイしました。 以来ゲイソントラベルに1 ...

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初めに 西野さんの生涯の中で、付かず離れずの関係で交流していた人に冨田竹二郎先生がいました。 2人ともタイ語を学ぶためタイに留学した経験があり、年齢的にもほぼ同じでさらに関西出身と言う共通の同郷意識もあり交流していたのではないでしょうか。 限られた事実の中から2人の関係について探ってみたい。 × × × × 冨田先生の紹介 その前に冨田先生について紹介しましょう。 兵庫県神戸市出身で大阪外国語学校 ...

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初めに 西野順治郎氏の列伝を連載していますが、今回は特別に戦前のチェンマイの出来事を挿入します。 話をする前に写真をご覧になって下さい。 この写真は旧日本軍がミャンマーに進出するためにチェンマイからメーホンソーンへ通じる道路建設を行いましたが、その鉄橋が現在でも残っています。 ★ ★ ★ ★ 1941年12月8日戦争勃発と共に日本軍はタイに進駐しましたが、3日後の11日には『日本国軍隊のタイ国領域 ...

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(西野さんが褒めたたえた内容の続き) また外交官の2枚舌として以下の通り紹介されています。 「坪上大使の場合もそうである。何回となくシャム政府に対して、不本意ながらも大嘘をつかねばならなかった。 まず最初の嘘は、平和進駐そのものである。勿論シャムの主権は認めるからビルマ、マレー作戦に必要な期間中だけ日本軍のシャム通過を容認してほしいと申し入れた。 しかるに、終戦の日までシャム国の首都盤谷に日本軍指 ...

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戦前の在タイ日本大使館に勤務していた頃の話です。 西野さんは、尊敬できる大使として坪上貞二(ていじ)大使を挙げています。 このことについては、昭和23年に書かれた「自由シャムの横顔」の中で「誠実な人、坪上大使」の見出しで書かれています。 以下、西野さんが直接仕えた同大使について紹介します。 × × × × 坪上大使は、西野さんより33歳年上で1884年(明治17年)6月生まれです。 外務省に入り外 ...

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新年おめでとうございます。今年初回の西野順治郎列伝です。 今年は、今後戦前の日本大使館勤務に続き、終戦、日本への引き上げ、商工省勤務、そしてトーメン入社へと、話が進展して行きます。また、取材協力頂いた皆様にはこの紙面を借用してお礼申し上げます。 今後、少なくとも100回以上の連載を予定していて、合計5年以上の長丁場になりますが、伏して皆様のご協力をお願いする次第です。 × × × × 1943年4 ...

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はじめに 泰麺鉄道については、既に3回連載しましたが著者として心残りの感があるので、さらにカンチャナブリー慰霊碑について書き加えて見ました。 著者と西野さんとの会話の中で、カンチャナブリーの話に及んだ時、「旧日本軍が奴隷を虐待したような博物館があり事実と異なる」という不満の言葉を発していたのを今でも覚えています。 「その博物館は、どんな人がどんな目的で作ったのかわからんけど…」と話していました。 ...

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花屋さんと西野順治郎さんのこと 戦前のタイを語る時、日本料理店「花屋」を抜きに語れないようです。 この店は、当時唯一の日本食で、日本人の間で情報交換の場になっていたと想像するからです。 もちろん西野さんも利用したと、想像に難くないです。 以下、「花屋」2代目の綿貫 孝(70歳)さんに、当時の事を語って頂きましたので、それを基に書いて見ました。 × × × × × × × × × × × × × × ...

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金子豊治氏と西野さん 西野さんの人生を大きく左右した人物として、金子豊治という人がいます。 既に書いたように、西野さんの奥さん、光枝さんの父に当たります。 わずかな資料しか存在しないので推測も含めて書いてみましょう。 この人物を取り上げるきっかけになったのは、西野さんの孫に当たる西野輝泰氏(45歳)が金子豊治氏について著者に紹介してくれたからです。 なお輝泰氏は、現在東京千代田区一番町で単独機能強 ...

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西野さんは1942年(昭和17年8月)25歳の時に光枝さんと結婚しています。 その結婚について、以下想像、推察も含めて紹介しましょう。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × 西野さんがチェンマイに勤務していた頃、既に述べた通り1942年7月に広田弘毅元首相を団長とする使節団が、日タイ同盟条約を祝賀するために来タイしました。 この時、西野さんはチェンマイからバンコク ...

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今回はトムヤンティ女史を追悼して柘植隆治さんの訪問記を紹介します。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × 2020年9月15日 朝4時30分起床 会社生活から引退してあっという間に4年経過、その間、気楽な生活を過ごしている。野球の試合に例えて言えば、消化試合を続けているといったところである。 そんな状態だが、友人の小林豊さんからチェンマイ行きに誘われ、およ ...

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前回に続き泰麺鉄道の話ですが、今回は西野さんの著書より「泰麺鉄道建設の手記」を 紹介します。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × × 「太平洋戦争勃発と同時に、日本軍はビルマへの侵攻の補給線確保のため、タイとビルマ間に425キロの鉄道を建設した。 これを担当した日本軍は、タイ側から鉄道第9連隊、ビルマ側から鉄道第5連隊(軍人及び軍属約15,000人)に加え、イン ...

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西野さんは、戦前泰麺鉄道(たいめんてつどう)建設工事の視察のため、カンチャナブリーに上司と同行しています。 このことは、同じ出身大学の先輩の滝沢義勝(76歳)さんが、西野さんから聞いた話として私に語ってくれました。 その視察の中で、映画の中で描かれているような日本軍の虐待行為はなく、「人道的に扱っていた」と話してくれたとのことです。 以上が結論ですが、まだカンチャナブリーの事をご存知ない方もいるか ...

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日本の厚生労働省が進める戦没者慰霊事業の一つで海外諸国に放置されたままになっている第二次世界大戦における戦没者の遺体を捜索し、収容して日本へ送還する事業。 日本政府は、昭和35年頃から各地に遺骨収集団を派遣して収集を開始して来ました。 しかし、タイ国は直接戦場とならなかったため、遺骨収集は行われて来ませんでした。 昭和52年後半から日本政府はタイでの遺骨収集の準備に取り掛かり、昭和53年1月7日、 ...

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インパール作戦は、1944年3月に始まり7月に中止になっています。 よって、この年から翌年の前半までビルマから撤退が続いたのでしょう。 蛇足ながら、この作戦は無謀な作戦の例として後日語られることになります。 どの位の将兵がクンユアムルートで退却してきたのか確かな数字はありませんが、西野さんは約7500名という数字をあげていますので、その数字を採用しましょう。 タイ政府は、退却して来た日本軍に対して ...

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初めに西野さんの伝記を執筆していますが、ある時お孫さんに当たる西野輝泰さんから次の通りメールが送られて来ました。 「昔チェンマイにある歴史記念館か博物館のようなところへ、一緒に行った記憶があるのですが、そこに設立者の一人として祖父の名前が入っていたことを覚えています」と。 この話を聞いて、もっと西野さんが関係したチェンマイ、特に日本軍との関わりを中心として書いてみたいという衝動に駆られました。 し ...

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  以下の内容は、チェンマイでの出来事なので「自由シャムの横顔」より引用して紹介します。  ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・― 1946年7月私は引き上げ帰国し、外務省の大臣秘書官室で寺崎外務次官の秘書を拝命した。  その頃、日本各地には連合国占領軍が駐屯しており、これら軍との連絡のため外務省出先機関として地方終戦連絡事務局が設置されていた。  地方の終戦連 ...

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こんなエピソードもあります。 チェンマイで勤務中のある日未明、警察署長の来訪で起こされました。 その前夜、同地に駐在していた日本の憲兵が同地の名士4名を逮捕し、「日本軍の兵営に連れ込んだのは如何なる理由か」とのことでした。 警察署長と共に軍の駐屯地に行ってみると、華僑系の大物名士(全員タイ国籍に帰化済)が連行されて来ていました。理由は中華民国政府に抗日資金を送っている、とのことでした。 この理由は ...

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西野さんは、加藤建夫中佐について「人徳があり立派な人格者」として評価しています。 2人が会って、彼は3ヵ月後の1942年5月には38歳で戦死しています。 その後彼は、軍神として崇められ、日本国民の戦意高揚のために利用されていきます。 戦中、戦後この人を中心テーマにした映画が何本も出ています。 以下、重複になりますが、伝記の内容より紹介します。 「加藤部隊長は部下からの信望も厚く、私とは短時間の交際 ...

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1941年8月、西野さんはサイゴンでチェンマイ勤務の辞令を受け取り、同9月に原田忠一郎領事と共に同地に赴任しました。 しかし、原田領事は11月初めから病気療養のため、バンコクに出たままであったので、西野さんは領事代理に任命され太平洋戦争の開戦を迎えました。 よって実質的には24歳の西野さんが領事として任務を遂行して来ました。 なお、当時領事館はホアイケーウ通りの現在のセントラルデパートの所にあった ...

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冒頭からお詫びです。今回西野さんの記事はチェンマイの話に進む、と予告しましたが、都合で特別編(2)を組むことになりました。読者の皆様、了解お願いします  東京メガネ、徳力勝利(55)さんに取材しました(5月5日) 「私が来タイした時は2003年で、その2年前に西野さんはお亡くなりになっていました。私は初代の児玉、2代目荒巻に次いで3代目の店長として赴任し、駐在は2009年までの6年間です。  今回 ...

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1940年9月、タイはフランスの植民地であったインドシナとの間に国境紛争を起こし、その調停を日本に依頼するため、時のピブン内閣(ピブンソンクラーム首相兼国防大臣)は、ルアン・プロームヨーティ国防副大臣一行を日本に派遣しました。  バンコク丸で渡日した一行が神戸入港の直前になって、西野さんが通訳のため急遽一時帰国を命ぜられました。開通したばかりの大日本航空会社の日タイ定期便「乃木号」で9月14日ドン ...

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当時のタマサート大学は、法学部、商学部の二学部だけで商学部には、ブンチュー・ローチャナサチヤン(後に国会議員から副総理)が、法学部の同級にはチンダー・ナソンクラー)後に人事院総裁)、ロートビット・ペレラー(後に私が参加する法律事務所のパートナー)、ビィラ・ロムヤナート(後にバンコク銀行副頭取)、クンジン・カノク・サマセーン(女性、後に国会議員)らが在学していました。これらの同級生のお陰で、後に人脈 ...

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ところでご存知でしょうか。マレーシアからタイへは直接線路は連結されておらず、タイの汽車に乗り換えになります。 国境駅では、タイ入国手続きを終え、時計を一時間遅く変えています。 バンコク到着の前日、電報にて知らせています。 7月24日昼過ぎ、国際列車がバンコク中央駅に到着した時には、数名の公使館員が出迎えてくれています。 西野さんは、定刻通りに到着したことに驚いていました。 夕方から、館員一同出席の ...

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なお、榛名丸での船内生活について、以下の通り想い出を残しています。 「ローマに行く同期入省の下村 清君(後にイタリア大使)を始め、ベルギーに居られた来栖(くるす)三郎大使の長男、良君(当時横浜高等工業学生、後に戦死)、長尾横浜正金銀行(シンガポール支店長)令嬢姉妹らは懐かしい人たちである」と。 なお、留学生試験に合格した岩瀬 幸さんは、別船でリスボン(ポルトガルの首都)へ向いました。 また船内では ...

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西野さんがタイへ出発した時は、弱冠20歳でした。 これから、バンコク留学の途に向かう話を進めましょう。 出発前の準備 東海道本線で神戸に向かう車内での話です。 特高警察が見回りに来て西野さんに職務質問しました。 それというのも、ガラガラの車内で学生服を着た若い青年が一人一等座席(グリーン車)に乗車しているなんて、不自然と疑問を持たれたからです。 特高の職務質問に対して、西野さんは、パスポートを見せ ...

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この紙面での連載で、飛び入り記事で著者がお世話になった話を書いてみました。 登場人物は、中村 薫氏で西野さんと同じトーメンの社員でした。 遡ること約35年前サイアムジャスコ(現在のイオングループ)が海外に進出する際、社内に適当な人材が見つからず、中村 薫氏をスカウトしました。 中村氏は、トーメン社の定年一年前にリクルート会社に海外で活躍できる場を求めてリクルート会社を通じて求職活動を行っていました ...

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留学生試験  話を戻して、外務省の国家試験を受験する動機として、自叙伝では次のように書かれています。  海外雄飛を目指して横浜に来たが、寒村の農家出身で特に実業界にコネを持っていなかったので、実力で受験できる分野を選択した、と書かれています。  当時農家出身者が、外務省の外交官に進むことは、極めてまれなケースだったのでしょう。それは「百姓出身者が侍の身分になる」ような、極めて可能性の少ない職業選択 ...

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  学生生活  翌年3月の春休みに、朝比奈宗源師の紹介状を受け取り、興津清見寺(静岡県静岡市)に古川大航を訪ね、座禅を修行しながら外務省への試験勉強を開始した、と書かれています。外務省試験の一年前から集中して勉強したことがうかがえます。  学生生活について、1年生は宮面寮という学校直営の寮に住んでいました。大学敷地の西側、運動場に続いている場所にありました。  2年になってからは、寮を出 ...

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  今回は西野さんが専門学校で学んだ様子や大学創業者米田吉盛先生のプロフィールについて若干紹介したい。   当時の横浜専門学校(現在の神奈川大学)は創立(昭和4年創立)後、日が浅く新興の気分に溢れていました。   学生は給費生試験に集まった秀才組と、逆に他校の入試に失敗したグループの混成でした。   一方教授陣は、一流大学の有名な教授を多数講師として招いていました。   従って、真剣に勉 ...

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横浜専門学校から外務省へ  横浜専門学校入学の話の前に、海外雄飛の話をしましょう。   西野さんは、少年時代に愛読した少年倶楽部の海外に関する小説、特に南洋一郎という南方(注:当時はこの方面を南洋と言った)を舞台にした物に憧れていました。   その上、特高警察に睨まれてからは益々海外雄飛の夢を持つようになったよう、と記述しています。(注:特高警察に睨まれたことは、第6回の掲載で触れている)   横 ...

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「クーカム」のあらすじ  メナムの残照は、タイ語のタイトルでは「クーカム」。ざっくりあらすじを説明しますと、小説の舞台は第2次世界大戦中、タイに派遣された日本兵の小堀とタイ人女性のアンスマリン(ひでこと呼ばれる)が主人公(ヒロイン)となっています。 二人は恋に落ちるも、政略結婚とひでこの彼氏が出現して三角関係を繰り広げ、自分の本当の気持ちに気づいたひでこは、彼氏に別れを告げ、完全に元カレから解放さ ...

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クーカムの人気 小説の話になりますが、タイで何度もドラマ化や映画化されてきた作品です。   小さい子供を除いて、この作品を知らないタイ人はいないといっても過言ではありません。   また、日本人の間でも、自己紹介する際に、「小堀です。私のアンスマリンを探しています」なんてジョークをかますのが鉄板ギャグだったのだとか。 人間の心に迫る内容 この小説が、こんなにもたくさんの人に愛されたのは、 実体験を組 ...

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始めに  前回生い立ちの中学生時代までを描きましたが、今回から3回にわたり西野さんと「メナムの残照」の著者トムヤンティ女史について描いて見ましょう。   西野さんの紹介  西野さんは、旧学制で専門学校の貿易学科で学び、来タイ後、タイ語学習の末にタマサート大学法学部を卒業、戦前タイの日本大使館でタイ政府との交渉の通訳などをされているので、タイ語がとても堪能です。   そんな西野さんは、タイで超有名な ...

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父親は西野さんに対してもお兄さんと同様、師範学校(注:教師になるための専門学校)への進学を望んでいましたが、次男であるため旧制高等学校への受験が許されました。   そこで西野さんは中学4年終了時、比較的競争率の低かった第三高等学校文科丙類(現京都大学教養学部)を選んで受験して合格しました。   しかし、この喜びも束の間で、その二学期には退学させられる運命となりました。   かいつまんで言うと、お兄 ...

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村の小学校は、西野さんの生家から約300メートル南の山麓にあり部落と同名寺院「金熊寺」と信達神社に隣接し、寺や神社の境内が学校の運動場でした。 全校児童数は130名(現在でもほとんど同数)、西野さんのクラスは男子12名、女子11名の23名でした。  教師は4名、その内ただ一人の女性の教師は1年生担任、校長は6年、他の二人の教師は4・5年と2・3年とをそれぞれ合同で担任していました。 1930年(昭 ...

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父親の利一郎さんは村で律義者として通った真面目で厳しい人物として知られていた、とのこと。   徴兵検査を受けて深山重砲第4連隊に入営し、選ばれて横須賀の砲術学校に留学させられ、東京赤羽にあった砲兵工廠の研修を経て特務曹長(注:曹長の上に置いた准士官)まで昇進しました。   日露戦争には曹長(注:軍隊で下士官の中で最上級の階級)で参戦し、旅順港攻略線を勝利に導いた砲兵部隊の分隊長としての功績により、 ...

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母親のキミさんは祖父母秀吉、ヨシの間に生まれた一人娘で、父利一郎は同じ部落の矢野家から来た婿で、大阪冬の陣で討死した矢野家泉守正嗣の子孫です。   歴史的な話になってしまいますが、矢野和泉守正嗣は、豊臣家を救うため真田幸村と共に紀州九度山から大阪城に入る時、二人の息子を伴っていましたが、弟の方が途中腹痛のため、この部落の床屋(注:後に説明)に預けられたため、討死を免れたのです。   西野、矢野両家 ...

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この覚え書きでは、小生が西野さんと接した中で知ったこと、自叙伝にも書かれた功績を書き留めつつ、余談も交えて当時の様子が見えるような内容になれれば良いと思います。彼の功績を紹介するに当たり、西野さんのことを知らない方も多いと思いますので、彼の生い立ちと家族から始め、どのような人物であったか年代に沿って紹介していきたい。 『出生地』 西野さんは1917年(大正6年)8月9日、大阪で生まれました。この時 ...

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「西野順治郎氏覚え書き」を次号より掲載いたします。同氏の生誕から逝去(せいきょ)まで、長期間の連載を予定しています。 まず、西野順治郎氏ついては、ご存じない方がおられますので略歴を紹介しましょう。 大正6年大阪府生まれで、横浜専門学校を卒業後、外務省留学生試験合格後、タイ留学。その後、終戦まで在チェンマイ領事館、在タイ日本大使館勤務。 終戦後は外務省に戻り、昭和26年外務省を退官。トーメン(現豊田 ...