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相手の立場を充分理解して接すれば先方もこちらを理解するようになるものである。 田中首相タイ訪問と前後して、タイ字新聞に呼応するかのように日本国内のマスコミもタイにおける反日運動を連日大々的に取り扱った。 このため進出企業をはじめ、各方面の関係者たちはあらゆる機会をとらえて悪化した両国の関係を是正すべく最大の努力を払うようになった。 貿易関係においてはタイから第一次産品を出来る限り多く買付けるよう努 ...

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初めに 西野順治郎列伝の中で、田中角栄首相のタイ訪問は歴史的に記録された出来事です。 その混乱の中で、西野さんが対応できた事は、元大使館員として身に余る光栄と感じた事でしょう。 これらの出来事について、4回に分けて当時の様子を振り返ってみましょう。 西野さんは、田中首相のタイ訪問について、多くの記述を残していますので、その話から始めましょう。 何しろ、一国の総理大臣が訪問先で多くのデモ隊で迎えられ ...

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しかし乍ら、タイでは政変後の開放感と前掲石油問題などに拍車をかけられているインフレ・ムードのため73年末より全国至る処で山猫ストが起こっているのは遺憾である。 従来の賃金ベースでは低過ぎたとはいえ法律に規定されている調停や予告の手段も無視されている事は、労使双方はもとより当局も反省すべきである。 特に、日系企業の給与ベースは現地企業に比して高水準あることも念頭におかれ慎重に行動されるようお願いした ...

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西野さんは、田中首相のタイ訪問2年前から、既に述べたようにJCC役員に就任しており、無役職の筆頭理事に任命されています。 この任命は70年のJCCの歴史の中で西野さんだけが経験したものでした。事実上、会頭代理のように扱われました。 反日運動が激化する中、このように活躍した西野さんを評価すると共に、彼は今後も輩出されない唯一無二の存在でしょう。 × × × × 話が逸れますが、著者は1980年代初め ...

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今から50年前、タイで反日運動が起こり日本製品の不買運動が起きたことを知っている人は、だんだん少なくなって来ています。 その渦中にあって、西野さんはタイと日本の友好のために奮闘しましたが、これらについて以下3回に渡り書き綴って行きます。 それを知るために、まず反日運動が生じた頃の当時の状況から振り返って見ましょう。 × × × × 戦後高度成長した日本は、安い労力を求めて海外進出を始めました。 最 ...

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この西野順治郎列伝シリーズも、お陰で第80回に至りました。 前回までの第10章では、国営紡績工場とタイ東レ工場の立ち上げを描きました。 西野さんは、これらのプロジェクトを成功裡に導き、社内で「不動な立場」を築き上げたようです。 振り返って、この列伝は西野さんの生誕から始まり、学生生活、外務省入省、タイ留学、在タイ日本大使館勤務、そして終戦に続いています。 その後、商社「東棉」に入り、五年後再びタイ ...

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工場の拡張 第一工場を立ち上げ後、次々と工場を立ち上げました。 それは、1981年にタイ証券市場に上場したことにより、大規模な資金調達を得たからです。 一方、トーメン社も株式上場による利益を受け内部留保を増加させました。 この工場の拡張と並行して、現地資本と合弁で設立された「川下工場」のラッキーテックス社があります。 × × × × 東レ本社社史によるタイ工場設立の内容は次の通りです。 東レはタイ ...

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日タイの貿易関係は年々増加しており、最近では日本からタイへの輸出額が年1億5千万ドルに達しています。 一方、輸入は1億ドルで、このアンバランス是正に努力を払っております。 また、東棉では当バンコク支店はその規模から見れば紐育(注:ニューヨーク)に次ぐ第二の海外支店で、現在邦人社員だけでも30名を超え、それでも人手不足の状況です。 (東棉バンコク支店次長 タイ東レ取締役総務部長) × × × × 森 ...

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東レの森広三郎社長は、戦時中三井物産バンコク支店長を勤めており、東棉の香川英史社長、西野さんとも親交のあった仲でした。 なお、西野さんは戦前バンコクで森 社長と既に会っています。さらに、バンブアトン収容所では、森さんは第一、第二、第三キャンプの総代表になっていて、大使館側の窓口となっていた西野さんと、たびたび打ち合わせをしていました。そんな仲だったので、昔話に花が咲き、話がトントン進みました。 東 ...

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初めに 西野さんが人生において輝かしい実績を残したプロジェクトに国営繊維工場の設立とタイへの誘致、立ち上げ、運営を進めたタイ東レの工場設立があります。 西野さんのタイ支店長就任は、53歳の時で、東レのプロジェクトはそこから5年前の48歳(1964年昭和39年)頃の話です。 通常、支店長に就任すると、支店全体の責任者になるので個々のプロジェクトを担当することができませんが、当時は次長職というルーチン ...

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西野さんは、戦前大使館勤務を始めた頃この書を愛用した事でしょう。 これから、その本について紹介して行きます。 現在のように情報があふれている時代とは違って、当時情報入手は困難な時代で唯一この本のみでした。 いわば、タイに関するバイブル本で、その名前は、「シャム」という僅か2文字半という短いタイトルです。 この本は、A5版で計630ページ、厚さは4センチほどです。 内容は、全ての分野について書かれて ...

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この記事を書くに当たり、現地に行って現状を調べて見ました。 工場があった場所は、ピサヌロークの中心から東側に約2キロ位離れた所で住宅地域にあるタイ国軍の遊休地でした。 その場所の正面の看板には、第34開発部隊と表示されています。 そして、その部隊は第3開発師団の所属となっており、管理者は国軍最高司令部と書かれています。つまり、紡績工場があった所は、国軍が管理している遊休地になっていました。 × × ...

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ここで、再度おさらいです。 特別円とは、戦時中にタイ駐留の日本軍がタイ政府から借りた軍費のことで、日本政府は96億円の返済を約束していました。 西野さんは、両国政府と折衝してこの内、約25億円をこのプロジェクトに充てることの了承を得ました。 そして、当時の国軍のチャワリット司令官に働きかけ実現する運びになったのです。 その成功に導いた理由として、国営繊維工場は国防省管轄の国営企業なので、チャワリッ ...

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繰り返しますが、東棉は、タイ政府と日本商社として最初のターンキー契約を締結し、一貫工場の建設を完成しました。 ちなみに「ターンキー契約」とは、プラント輸出等において、設計から機器・資材・役務の調達、建設及び試運転までの全業務を単一のコントラクターが一括して定額で、納期、保証、性能保証責任を負って請け負う契約で、プラントのキー(かぎ)を回しさえすれば稼働できる状態でオーナーに引き渡すことから、この名 ...

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さらに、プロジェクトの話に入る前に「特別円」について説明して置きましょう。 西野さんは、タイと日本の政治動向を熟知していたので、この特別円の存在も当然フォローしていました。 戦時中、タイ駐留の日本軍がタイ政府から借りた軍費がありましたが、日本が敗戦したためタイ政府は不良債権となっていました。 昭和30年、日本とタイの間で特別円協定が結ばれ、日本側はタイに96億円を返済する約束をしていました。 ×  ...

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初めに 西野さんのタイでの商社マンとしての大きな実績は、このプロジェクトから始まります。 すなわち、タイ国軍が運営していた国営紡績工場が老朽化していたので、それを日本からの最新設備を導入して最新の繊維工場に立ち上げ、その結果、この実績が評価され社長賞を受けたという話。 以下、これら一連の経過について追って行きます。 × × × × その前に、国営繊維工場建設とタイ東レ工場建設について説明します。 ...

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  この時、西野さんは支店長代理に任命され、輸出担当以外に支店長の補佐役も務めました。 1959年に内地の穀肥油量課長の席が開くので、帰国しないかとの話が本社から来ましたが、その時の宇敷正章支店長(後に取締役)に請われてそのままタイに留まりました。 これが西野さんをして、タイに長期滞在せしめる契機となったのです。 これより先1955年7月(タイ出張3年目、38歳)に、西野さんは日本政府に ...

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このような昼間お得意さん回り、夕方本社報告の状態が1年ほど続きましたが、1952年暮れより米受け渡し担当者として松村仁さんが着任したので、西野さんは米以外の全ての商品を受け持つ事になりました。   1953年初めより、サラデーン(ドゥシットタニー・ホテルの裏)に独立家屋を借りて事務所兼宿舎としましたが、この家は奇しくも1937年に初めてタイに着いたその日に初めて泊まった、天田(あまだ)副 ...

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1951年に日本政府の在外事務所(大使館設置前の事務所)の設置が認められると同時に、商社の派遣員の海外駐在も認められるようになり、バンコクにも既に数社の派遣員が来ていました。 東棉も繊維部門出身の管輝雄氏(戦時中バンコク支店勤務)が、6ヵ月前から駐在していましたが、西野さんが赴任すると交代で帰国しました。 以上のような貿易再開の機運の中、1952年(昭和27年)3月、西野さんは(35歳)タイ駐在員 ...

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話しを進める前に少し横道に逸れますが、この東洋綿花(トーメン)の会社について少し説明しましょう。 1921年(大正10年)三井物産の綿花部門が独立して、綿花と繊維を扱う総合商社となりました。 東洋綿花という社名に「綿花」を使用していますが、その分野がメインの専門商社だったのです。 今ではポリエステル素材に追いやられていますが、昭和14年にポリエステル繊維が発明される前までは天然繊維である綿花が全盛 ...

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なお、1950年頃より占領軍は海外の諸国に外交機関に代わる在外事務所設置を認め、また商社の渡航も容認するようになりました。 しかし、戦後の商社には充分な海外要員が育っていなかったため、多くの外務、通産省から公務員が民間商社に入り海外に出て行くケースが出ていました。 そして西野さんへも、通産省時代多くの商社から、海外要員として参加の勧誘がありました。 中でも、第一物産(後に合併して三井物産となる)の ...

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チェンマイに住んでいる友達がいますが、その彼と西野さんの話題の際、白洲次郎さんの名前が出て来ました。 その時、白洲次郎と聞いて著者は「あぁー彼(白洲次郎)のことは本で読んだことがある」と応じました。 白洲次郎氏を知っている方もいると思いますが若干紹介します。 彼は若い時イギリスで留学し、実績を残した実業家でした。 戦前、アメリカの強さを知っていたので、戦争に反対した人です。 しかし、軍部の力で戦争 ...

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初めに タイから帰還した西野さんは、外務省に復職したものの1年後外務省から商工省(現在の経済産業省)に出向を命じられています。 それは、「片道切符」で、外務省は当時定員オーバーだったからです。 そして、商工省での勤務の後、東洋棉花(トーメン)という商社に入社し、1年後に再びタイに戻るという道を歩いています。 これらの時期について、事実と想像で当時の様子を振り返って見ましょう。 × × × 役所生活 ...

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この本の表紙にキンナラ(タイ語でキンナリー)をモチーフにした像が描かれています。 ちなみに、このキンナラはインド神話に登場する音楽の神々です。また、「自由シャムの横顔」のローマ字表示もあります。 これは、日本語のみならず外国人にもこの本の内容がわかるように併記したのでしょう。 西野さんが世界的な視野に立って書いたように思えます。 本「自由シャムの横顔」舟形書院(1948年)は、現在国会図書館に保存 ...

西野順治郎,未分類

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初めに 西野さんは、生前以下4冊の本を発行しています。 「自由シャムの横顔」船形書院、1948年 「メナムの残照」角川書店(角川文庫) 1978年 「日タイ四百年史」時事通信社 1984年 「タイの大地と共に―星霜(せいそう)移り変わる半世紀」日経事業出版社 1996年 × × × × 今回はその中で、最初の本「自由シャムの横顔」について紹介します。A5版114ページ。 内容は、次の通りで前編「自 ...

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昭和22年8月、6ヵ月の研修を終え商工省調査局第一課に配属となりました。 なお、辞令は「商工事務官 商工省へ出向ヲ命ズ 渉外部外課勤務」でした。 しかし、本人はこの辞令をどの程度予測していたでしょうか。 西野さんは、この辞令を見て驚き、落胆したことでしょう。 しかし、役所を首にならなくて良かったですね、が著者の感想です。 現在なら、出向は3年間位で戻れる制度ですが、当時は戻れる見込みのない「片道切 ...

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  新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 × × × × × × × 繰り返しますが、1946年8月単身で上京し、帰国報告のため外務省に登庁した西野さんは、幸運にも外務次官、寺崎太郎氏の秘書官として奉職することになりました。 寺崎太郎外務次官は、気骨のある性格だったので同様の性格の西野さんを登用したのでしょう。 しかし、不運にもこの外務次官秘書官奉職は長く続きませんでし ...

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吉田外務大臣、寺崎次官ともに、戦時中は軍に抗して辛酸(しんさん)を嘗(な)めた人だけに意志の強い反面、温情的な性格の持ち主だったようです。 よって、勤務上嫌な思いをしたことはなく、ツーカーの仲だったようです。 しかし毎日、退庁するのは暗くなってからで、これに慣れるのが大変だったようです。 役所では、上司が退庁しないと部下も退庁できない、という風潮が過去も、現在も残っており、悪しき慣例になっています ...

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タイからの引き上げで西野さん達のグループが乗船したのは、第一陣でした。 なお、第二陣、第三陣と続き、第三陣が1946年11月23日長崎の佐世保に入港し、最後のタイからの帰還組となりました。 × × × × 帰国して翌8月外務省へ帰国報告のため単身で上京し、奥さんの実家である練馬の金子家に居候しました。 当時東京は、戦時中に何回もの爆撃を受けて焦土化していました。 外務省も爆弾で潰(つぶ)され、芝田 ...

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  戦争に敗れたので、大使館員といえども民間人と共に引き上げて来たのです。 この時、仮に特権があったとしても、西野さんはそれを利用しなかったでしょう。 西野さんは、いつでも特権を乱用する人ではなかったのです。 ここでも、「自ら計らわず」の信念を貫いたようです。(注:このフレーズは、城山三郎薯「落日燃ゆ」広田弘毅の座右の銘より) × × 以下、前回と一部重複する内容になりますが、おさらいと ...

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バンブアトン収容所を語る時、微笑ましい話があります。 それは 、6歳になる浅丘ルリ子さんが、収容所で収容されて過ごしていたことです。 このことは、西野さんも著者に話してくれたことがありました。 女優の浅丘ルリ子さんといえば、戦後映画界で石原裕次郎や他の俳優とコンビを組み一世を風靡(ふうび)した人です。 その作品は、今でもYouTubeで視聴することができます。 以下、ネットでの内容を紹介します。 ...

西野順治郎,未分類

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この間、西野さんと鶴見清彦官補(後にジュネーブ国際機関大使)だけは、タイ官憲や在留邦人との連絡のため収容所に入らず、外出を許可されていました。 バンブアトン収容所へも、視察、慰問を兼ねて何回か訪問しました。 その時の話で、上からの命令で、収容所視察、慰問を兼ねて出かけたところ、口の悪いある日本人から「なんであんたは、この収容所に入らないのか」と罵られたとのこと。 タイ政府からの指示で連絡係を担当し ...

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終戦と共に日本と各国との外交関係は断絶させられ、在タイ日本大使館の全ての機能は9月11日に閉鎖され、大使館員は山本熊一大使以下約182名(男子71名、女子85名、子供26名)で、9月14日から旧ペッブリー通りの、大使館公邸と隣接していた2階建ての日泰文化会館内に軟禁されました。 一般邦人は隣組(注:連絡網のような役割を担っていた)により、9月17日午前12時から外出禁止、自宅軟禁となり10月初めに ...

未分類,西野順治郎

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しばらくして、石川総領事がマイクの前に立ちました。 「皆さん、只今大使閣下が代読された勅語の通り、日本政府は連合国から提示されたポツダム宣言を受諾して戦争を終結することになりました。」 (著者注:終戦当時日本大使館は、現在のインドネシア大使館の所にあり) 「いずれタイにも連合国軍が進駐してくると思いますが、在留邦人の安全につきましては、タイ政府と連絡を取りつつ万全を期するよう努力致しますから、各自 ...

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終戦当日の様子について、西野さんは詳細に記述していますので以下紹介します。 × × × ペッブリー通りの日本大使館官邸では、裏の広い庭に日本人会から連絡を受けた数百人の在留邦人が集まっていました。 ベランダには山本熊一駐タイ大使を始め、連合軍に奪還されたビルマから引き上げてきた石射猪太郎駐ビルマ大使他、大使館員たちが沈んだ面持ちで並んでいました。 まず鶴見秘書官がマイクの前に立って次のように切り出 ...

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陸軍大佐、辻政信の話 また彼(西野)の記憶では、タイに駐在していた陸軍大佐の辻政信は「右翼」の人物で、タイの占領や自由タイを逮捕するように大使館に申し出ることもありましたが、1945年8月に日本が無条件降伏を宣言した時、辻政信大佐は戦犯者にならない方法はないかと大使館に行ったが、空手で帰りました。中村中将から彼が死亡したと云わせ、サパーンブット橋の近くにあるリアップ寺に出家しましたが、日本に戻り、 ...

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サーイユット大将の著書より 当時私は、第一陸部隊第29番隊所属、第12番陸軍省第一援護部隊の少佐で、バンコクのセーンセープ運河からバーンスー運河までの守備任務を任されました。 その後カセサート大学の要塞に移動し、1943年日本の司令部部隊との会議に参加することになりました。 (著者注:この会議の席上、サーイユット大将は西野さんの存在を認識していた) × × × × 1938年から彼はタイに来て、当 ...

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初めに サーイユット・カートポン大将が西野順治郎さんについて、取り上げている書物が見つかりましたので紹介します。 タイ国陸軍司令官を務めた彼は、現在99歳で戦時中に西野さんの存在を認めていたという話で、その内容を以下順追って紹介しましょう。 サーイユット・カートポン大将の紹介 サーイユット・カートポン大将は、1923年3月30日生まれ(99歳)、士官学校出身、奨学金を得てアメリカとオーストラリアで ...

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なお、大使館は9月11日付けで閉鎖、14日より軟禁されましたが、西野さんともう一人の大使館員は窓口要員として外出が許されていました。 × × × × × × × × × × × × 中村中将が残した辞世の句は、次の通りです。 「碁に負けて眺むる狭庭(さにわ)花もなく めくら判おいて閻魔(えんま)と打ちに行く」 訳:碁に負けて狭庭(狭い庭)を眺めるが花もなく、めくら判押して閻魔と碁を打ちに行く 「戦 ...

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初めに 今回、西野順治郎氏と浜田中(ひとし)中将、第39軍参謀兼タイ国日本大使館附武官について取り上げます。 戦時中のタイに於いて、浜田中将より中村明人(あけと)タイ国駐屯軍司令官の方が有名です。 なぜなら、既に書いたことですが、中村明人司令官については「メナムの残照」の筆者、トムヤンテイ女史が尊敬する軍人のモデル小堀として取り上げているからです。 しかし、西野さんは、自らの自叙伝の中で中村明人司 ...

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1945年(昭和20年)8月10日、日本政府は、同盟通信社(戦後共同、時事通信社に分割)を通じ、連合国が発表した降伏条件を示すポツダム宣言を受諾する意向を伝えました。 タイの新聞は、このニュースを翌11日の朝刊で大々的に報道しました。翌12日山本熊一駐タイ日本大使は、ポツダム宣言の受諾決定をタイ政府に通告しました。これは、日泰攻守同盟条約に基づくものであったが、タイ政府は通告が遅いと不快感を示しま ...

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この阿波丸は、2,000人の外務官僚や民間人及びその家族を乗せて、戦時中の船では珍しく安全を約束されて、堂々たる照明を付けて祖国に向かったのであるが、4月1日夜アメリカ潜水艦の魚雷を受けて一瞬にして沈没したのである。 そして、アメリカ艦に救われたコック長1名だけが生き残ったのである。 4月7日の米国政府の公表では、同船は予定航路を外れており、しかも照明が不鮮明であったなどと伝えられたが、日本側はこ ...

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今回から2回にわたり、西野さん家族が阿波丸に乗船しなかったため、災難に合わなかったという出来事を西野さんの書物より紹介します。 × × × 民間の所有する商船は船舶運営会の指揮下に置かれ運用に供されていた。 このため、世界第三の商船王国を誇った日本の商船隊も戦争の犠牲となり、全滅に瀕していた。 たまたま1945年初めに、交戦国間で中立国を通じて、敵国に抑留されている捕虜や民間人に慰問品を送る話がま ...

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著者は西野順治郎さんと長い交流の中で、阿波丸のことを何度か話題として聞いたことがあります。 それだけ関心のある話として脳裏にとどまっていて、他の人に話さずにはおれなかったからでしょう。 戦争中の体験として、まさに生死を分けた出来事だったからです。 その事件は、敗戦ムードが漂う昭和20年3月頃の話です。 以下、西野さんの書き物を基に話を進めましょう。 × × × × 1945年に入り、戦局は日本にと ...

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  冨田先生は大学でタイ語を教えていた頃、学生に対して「タイには西野順治郎という元在タイ日本大使館員で、現在商社マンをしている人がいる」と話していました。 これは冨田先生が、西野さんの能力を認め尊敬していたから自慢話として話題にしたのでしょう。 実はこのような話、友人として著者と懇意にしていた澤 武氏が語ってくれました。 澤氏は、大阪外国語大学の学生時代に冨田先生から「タイには西野順治郎 ...

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初めに 加藤郁郎氏は、昨年の8月に肺炎で昇天しています。そのことを知ったのは最近なので、急遽追悼の意味も含めて、加藤郁郎氏と西野順治郎氏について紹介します。 それは著者が来タイした頃の話で、ゲイソントラベルの加藤郁郎氏が、西野さん、アマリングループの松田嘉久氏、サリカグループ、の出会いの話です。 加藤郁郎氏の紹介から始めましょう。 1980年、22歳の時に来タイしました。 以来ゲイソントラベルに1 ...

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初めに 西野さんの生涯の中で、付かず離れずの関係で交流していた人に冨田竹二郎先生がいました。 2人ともタイ語を学ぶためタイに留学した経験があり、年齢的にもほぼ同じでさらに関西出身と言う共通の同郷意識もあり交流していたのではないでしょうか。 限られた事実の中から2人の関係について探ってみたい。 × × × × 冨田先生の紹介 その前に冨田先生について紹介しましょう。 兵庫県神戸市出身で大阪外国語学校 ...

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初めに 西野順治郎氏の列伝を連載していますが、今回は特別に戦前のチェンマイの出来事を挿入します。 話をする前に写真をご覧になって下さい。 この写真は旧日本軍がミャンマーに進出するためにチェンマイからメーホンソーンへ通じる道路建設を行いましたが、その鉄橋が現在でも残っています。 ★ ★ ★ ★ 1941年12月8日戦争勃発と共に日本軍はタイに進駐しましたが、3日後の11日には『日本国軍隊のタイ国領域 ...

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(西野さんが褒めたたえた内容の続き) また外交官の2枚舌として以下の通り紹介されています。 「坪上大使の場合もそうである。何回となくシャム政府に対して、不本意ながらも大嘘をつかねばならなかった。 まず最初の嘘は、平和進駐そのものである。勿論シャムの主権は認めるからビルマ、マレー作戦に必要な期間中だけ日本軍のシャム通過を容認してほしいと申し入れた。 しかるに、終戦の日までシャム国の首都盤谷に日本軍指 ...

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戦前の在タイ日本大使館に勤務していた頃の話です。 西野さんは、尊敬できる大使として坪上貞二(ていじ)大使を挙げています。 このことについては、昭和23年に書かれた「自由シャムの横顔」の中で「誠実な人、坪上大使」の見出しで書かれています。 以下、西野さんが直接仕えた同大使について紹介します。 × × × × 坪上大使は、西野さんより33歳年上で1884年(明治17年)6月生まれです。 外務省に入り外 ...

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新年おめでとうございます。今年初回の西野順治郎列伝です。 今年は、今後戦前の日本大使館勤務に続き、終戦、日本への引き上げ、商工省勤務、そしてトーメン入社へと、話が進展して行きます。また、取材協力頂いた皆様にはこの紙面を借用してお礼申し上げます。 今後、少なくとも100回以上の連載を予定していて、合計5年以上の長丁場になりますが、伏して皆様のご協力をお願いする次第です。 × × × × 1943年4 ...

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はじめに 泰麺鉄道については、既に3回連載しましたが著者として心残りの感があるので、さらにカンチャナブリー慰霊碑について書き加えて見ました。 著者と西野さんとの会話の中で、カンチャナブリーの話に及んだ時、「旧日本軍が奴隷を虐待したような博物館があり事実と異なる」という不満の言葉を発していたのを今でも覚えています。 「その博物館は、どんな人がどんな目的で作ったのかわからんけど…」と話していました。 ...

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花屋さんと西野順治郎さんのこと 戦前のタイを語る時、日本料理店「花屋」を抜きに語れないようです。 この店は、当時唯一の日本食で、日本人の間で情報交換の場になっていたと想像するからです。 もちろん西野さんも利用したと、想像に難くないです。 以下、「花屋」2代目の綿貫 孝(70歳)さんに、当時の事を語って頂きましたので、それを基に書いて見ました。 × × × × × × × × × × × × × × ...

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金子豊治氏と西野さん 西野さんの人生を大きく左右した人物として、金子豊治という人がいます。 既に書いたように、西野さんの奥さん、光枝さんの父に当たります。 わずかな資料しか存在しないので推測も含めて書いてみましょう。 この人物を取り上げるきっかけになったのは、西野さんの孫に当たる西野輝泰氏(45歳)が金子豊治氏について著者に紹介してくれたからです。 なお輝泰氏は、現在東京千代田区一番町で単独機能強 ...

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西野さんは1942年(昭和17年8月)25歳の時に光枝さんと結婚しています。 その結婚について、以下想像、推察も含めて紹介しましょう。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × 西野さんがチェンマイに勤務していた頃、既に述べた通り1942年7月に広田弘毅元首相を団長とする使節団が、日タイ同盟条約を祝賀するために来タイしました。 この時、西野さんはチェンマイからバンコク ...

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今回はトムヤンティ女史を追悼して柘植隆治さんの訪問記を紹介します。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × 2020年9月15日 朝4時30分起床 会社生活から引退してあっという間に4年経過、その間、気楽な生活を過ごしている。野球の試合に例えて言えば、消化試合を続けているといったところである。 そんな状態だが、友人の小林豊さんからチェンマイ行きに誘われ、およ ...

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前回に続き泰麺鉄道の話ですが、今回は西野さんの著書より「泰麺鉄道建設の手記」を 紹介します。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × × 「太平洋戦争勃発と同時に、日本軍はビルマへの侵攻の補給線確保のため、タイとビルマ間に425キロの鉄道を建設した。 これを担当した日本軍は、タイ側から鉄道第9連隊、ビルマ側から鉄道第5連隊(軍人及び軍属約15,000人)に加え、イン ...

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西野さんは、戦前泰麺鉄道(たいめんてつどう)建設工事の視察のため、カンチャナブリーに上司と同行しています。 このことは、同じ出身大学の先輩の滝沢義勝(76歳)さんが、西野さんから聞いた話として私に語ってくれました。 その視察の中で、映画の中で描かれているような日本軍の虐待行為はなく、「人道的に扱っていた」と話してくれたとのことです。 以上が結論ですが、まだカンチャナブリーの事をご存知ない方もいるか ...

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日本の厚生労働省が進める戦没者慰霊事業の一つで海外諸国に放置されたままになっている第二次世界大戦における戦没者の遺体を捜索し、収容して日本へ送還する事業。 日本政府は、昭和35年頃から各地に遺骨収集団を派遣して収集を開始して来ました。 しかし、タイ国は直接戦場とならなかったため、遺骨収集は行われて来ませんでした。 昭和52年後半から日本政府はタイでの遺骨収集の準備に取り掛かり、昭和53年1月7日、 ...

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インパール作戦は、1944年3月に始まり7月に中止になっています。 よって、この年から翌年の前半までビルマから撤退が続いたのでしょう。 蛇足ながら、この作戦は無謀な作戦の例として後日語られることになります。 どの位の将兵がクンユアムルートで退却してきたのか確かな数字はありませんが、西野さんは約7500名という数字をあげていますので、その数字を採用しましょう。 タイ政府は、退却して来た日本軍に対して ...

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初めに西野さんの伝記を執筆していますが、ある時お孫さんに当たる西野輝泰さんから次の通りメールが送られて来ました。 「昔チェンマイにある歴史記念館か博物館のようなところへ、一緒に行った記憶があるのですが、そこに設立者の一人として祖父の名前が入っていたことを覚えています」と。 この話を聞いて、もっと西野さんが関係したチェンマイ、特に日本軍との関わりを中心として書いてみたいという衝動に駆られました。 し ...

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  以下の内容は、チェンマイでの出来事なので「自由シャムの横顔」より引用して紹介します。  ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・― 1946年7月私は引き上げ帰国し、外務省の大臣秘書官室で寺崎外務次官の秘書を拝命した。  その頃、日本各地には連合国占領軍が駐屯しており、これら軍との連絡のため外務省出先機関として地方終戦連絡事務局が設置されていた。  地方の終戦連 ...

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こんなエピソードもあります。 チェンマイで勤務中のある日未明、警察署長の来訪で起こされました。 その前夜、同地に駐在していた日本の憲兵が同地の名士4名を逮捕し、「日本軍の兵営に連れ込んだのは如何なる理由か」とのことでした。 警察署長と共に軍の駐屯地に行ってみると、華僑系の大物名士(全員タイ国籍に帰化済)が連行されて来ていました。理由は中華民国政府に抗日資金を送っている、とのことでした。 この理由は ...

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西野さんは、加藤建夫中佐について「人徳があり立派な人格者」として評価しています。 2人が会って、彼は3ヵ月後の1942年5月には38歳で戦死しています。 その後彼は、軍神として崇められ、日本国民の戦意高揚のために利用されていきます。 戦中、戦後この人を中心テーマにした映画が何本も出ています。 以下、重複になりますが、伝記の内容より紹介します。 「加藤部隊長は部下からの信望も厚く、私とは短時間の交際 ...

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1941年8月、西野さんはサイゴンでチェンマイ勤務の辞令を受け取り、同9月に原田忠一郎領事と共に同地に赴任しました。 しかし、原田領事は11月初めから病気療養のため、バンコクに出たままであったので、西野さんは領事代理に任命され太平洋戦争の開戦を迎えました。 よって実質的には24歳の西野さんが領事として任務を遂行して来ました。 なお、当時領事館はホアイケーウ通りの現在のセントラルデパートの所にあった ...

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冒頭からお詫びです。今回西野さんの記事はチェンマイの話に進む、と予告しましたが、都合で特別編(2)を組むことになりました。読者の皆様、了解お願いします  東京メガネ、徳力勝利(55)さんに取材しました(5月5日) 「私が来タイした時は2003年で、その2年前に西野さんはお亡くなりになっていました。私は初代の児玉、2代目荒巻に次いで3代目の店長として赴任し、駐在は2009年までの6年間です。  今回 ...

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1940年9月、タイはフランスの植民地であったインドシナとの間に国境紛争を起こし、その調停を日本に依頼するため、時のピブン内閣(ピブンソンクラーム首相兼国防大臣)は、ルアン・プロームヨーティ国防副大臣一行を日本に派遣しました。  バンコク丸で渡日した一行が神戸入港の直前になって、西野さんが通訳のため急遽一時帰国を命ぜられました。開通したばかりの大日本航空会社の日タイ定期便「乃木号」で9月14日ドン ...

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当時のタマサート大学は、法学部、商学部の二学部だけで商学部には、ブンチュー・ローチャナサチヤン(後に国会議員から副総理)が、法学部の同級にはチンダー・ナソンクラー)後に人事院総裁)、ロートビット・ペレラー(後に私が参加する法律事務所のパートナー)、ビィラ・ロムヤナート(後にバンコク銀行副頭取)、クンジン・カノク・サマセーン(女性、後に国会議員)らが在学していました。これらの同級生のお陰で、後に人脈 ...

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ところでご存知でしょうか。マレーシアからタイへは直接線路は連結されておらず、タイの汽車に乗り換えになります。 国境駅では、タイ入国手続きを終え、時計を一時間遅く変えています。 バンコク到着の前日、電報にて知らせています。 7月24日昼過ぎ、国際列車がバンコク中央駅に到着した時には、数名の公使館員が出迎えてくれています。 西野さんは、定刻通りに到着したことに驚いていました。 夕方から、館員一同出席の ...

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なお、榛名丸での船内生活について、以下の通り想い出を残しています。 「ローマに行く同期入省の下村 清君(後にイタリア大使)を始め、ベルギーに居られた来栖(くるす)三郎大使の長男、良君(当時横浜高等工業学生、後に戦死)、長尾横浜正金銀行(シンガポール支店長)令嬢姉妹らは懐かしい人たちである」と。 なお、留学生試験に合格した岩瀬 幸さんは、別船でリスボン(ポルトガルの首都)へ向いました。 また船内では ...

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西野さんがタイへ出発した時は、弱冠20歳でした。 これから、バンコク留学の途に向かう話を進めましょう。 出発前の準備 東海道本線で神戸に向かう車内での話です。 特高警察が見回りに来て西野さんに職務質問しました。 それというのも、ガラガラの車内で学生服を着た若い青年が一人一等座席(グリーン車)に乗車しているなんて、不自然と疑問を持たれたからです。 特高の職務質問に対して、西野さんは、パスポートを見せ ...

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この紙面での連載で、飛び入り記事で著者がお世話になった話を書いてみました。 登場人物は、中村 薫氏で西野さんと同じトーメンの社員でした。 遡ること約35年前サイアムジャスコ(現在のイオングループ)が海外に進出する際、社内に適当な人材が見つからず、中村 薫氏をスカウトしました。 中村氏は、トーメン社の定年一年前にリクルート会社に海外で活躍できる場を求めてリクルート会社を通じて求職活動を行っていました ...

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留学生試験  話を戻して、外務省の国家試験を受験する動機として、自叙伝では次のように書かれています。  海外雄飛を目指して横浜に来たが、寒村の農家出身で特に実業界にコネを持っていなかったので、実力で受験できる分野を選択した、と書かれています。  当時農家出身者が、外務省の外交官に進むことは、極めてまれなケースだったのでしょう。それは「百姓出身者が侍の身分になる」ような、極めて可能性の少ない職業選択 ...

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  学生生活  翌年3月の春休みに、朝比奈宗源師の紹介状を受け取り、興津清見寺(静岡県静岡市)に古川大航を訪ね、座禅を修行しながら外務省への試験勉強を開始した、と書かれています。外務省試験の一年前から集中して勉強したことがうかがえます。  学生生活について、1年生は宮面寮という学校直営の寮に住んでいました。大学敷地の西側、運動場に続いている場所にありました。  2年になってからは、寮を出 ...

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  今回は西野さんが専門学校で学んだ様子や大学創業者米田吉盛先生のプロフィールについて若干紹介したい。   当時の横浜専門学校(現在の神奈川大学)は創立(昭和4年創立)後、日が浅く新興の気分に溢れていました。   学生は給費生試験に集まった秀才組と、逆に他校の入試に失敗したグループの混成でした。   一方教授陣は、一流大学の有名な教授を多数講師として招いていました。   従って、真剣に勉 ...

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横浜専門学校から外務省へ  横浜専門学校入学の話の前に、海外雄飛の話をしましょう。   西野さんは、少年時代に愛読した少年倶楽部の海外に関する小説、特に南洋一郎という南方(注:当時はこの方面を南洋と言った)を舞台にした物に憧れていました。   その上、特高警察に睨まれてからは益々海外雄飛の夢を持つようになったよう、と記述しています。(注:特高警察に睨まれたことは、第6回の掲載で触れている)   横 ...

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「クーカム」のあらすじ  メナムの残照は、タイ語のタイトルでは「クーカム」。ざっくりあらすじを説明しますと、小説の舞台は第2次世界大戦中、タイに派遣された日本兵の小堀とタイ人女性のアンスマリン(ひでこと呼ばれる)が主人公(ヒロイン)となっています。 二人は恋に落ちるも、政略結婚とひでこの彼氏が出現して三角関係を繰り広げ、自分の本当の気持ちに気づいたひでこは、彼氏に別れを告げ、完全に元カレから解放さ ...

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クーカムの人気 小説の話になりますが、タイで何度もドラマ化や映画化されてきた作品です。   小さい子供を除いて、この作品を知らないタイ人はいないといっても過言ではありません。   また、日本人の間でも、自己紹介する際に、「小堀です。私のアンスマリンを探しています」なんてジョークをかますのが鉄板ギャグだったのだとか。 人間の心に迫る内容 この小説が、こんなにもたくさんの人に愛されたのは、 実体験を組 ...

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始めに  前回生い立ちの中学生時代までを描きましたが、今回から3回にわたり西野さんと「メナムの残照」の著者トムヤンティ女史について描いて見ましょう。   西野さんの紹介  西野さんは、旧学制で専門学校の貿易学科で学び、来タイ後、タイ語学習の末にタマサート大学法学部を卒業、戦前タイの日本大使館でタイ政府との交渉の通訳などをされているので、タイ語がとても堪能です。   そんな西野さんは、タイで超有名な ...

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父親は西野さんに対してもお兄さんと同様、師範学校(注:教師になるための専門学校)への進学を望んでいましたが、次男であるため旧制高等学校への受験が許されました。   そこで西野さんは中学4年終了時、比較的競争率の低かった第三高等学校文科丙類(現京都大学教養学部)を選んで受験して合格しました。   しかし、この喜びも束の間で、その二学期には退学させられる運命となりました。   かいつまんで言うと、お兄 ...

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村の小学校は、西野さんの生家から約300メートル南の山麓にあり部落と同名寺院「金熊寺」と信達神社に隣接し、寺や神社の境内が学校の運動場でした。 全校児童数は130名(現在でもほとんど同数)、西野さんのクラスは男子12名、女子11名の23名でした。  教師は4名、その内ただ一人の女性の教師は1年生担任、校長は6年、他の二人の教師は4・5年と2・3年とをそれぞれ合同で担任していました。 1930年(昭 ...

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父親の利一郎さんは村で律義者として通った真面目で厳しい人物として知られていた、とのこと。   徴兵検査を受けて深山重砲第4連隊に入営し、選ばれて横須賀の砲術学校に留学させられ、東京赤羽にあった砲兵工廠の研修を経て特務曹長(注:曹長の上に置いた准士官)まで昇進しました。   日露戦争には曹長(注:軍隊で下士官の中で最上級の階級)で参戦し、旅順港攻略線を勝利に導いた砲兵部隊の分隊長としての功績により、 ...

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母親のキミさんは祖父母秀吉、ヨシの間に生まれた一人娘で、父利一郎は同じ部落の矢野家から来た婿で、大阪冬の陣で討死した矢野家泉守正嗣の子孫です。   歴史的な話になってしまいますが、矢野和泉守正嗣は、豊臣家を救うため真田幸村と共に紀州九度山から大阪城に入る時、二人の息子を伴っていましたが、弟の方が途中腹痛のため、この部落の床屋(注:後に説明)に預けられたため、討死を免れたのです。   西野、矢野両家 ...

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この覚え書きでは、小生が西野さんと接した中で知ったこと、自叙伝にも書かれた功績を書き留めつつ、余談も交えて当時の様子が見えるような内容になれれば良いと思います。彼の功績を紹介するに当たり、西野さんのことを知らない方も多いと思いますので、彼の生い立ちと家族から始め、どのような人物であったか年代に沿って紹介していきたい。 『出生地』 西野さんは1917年(大正6年)8月9日、大阪で生まれました。この時 ...

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「西野順治郎氏覚え書き」を次号より掲載いたします。同氏の生誕から逝去(せいきょ)まで、長期間の連載を予定しています。 まず、西野順治郎氏ついては、ご存じない方がおられますので略歴を紹介しましょう。 大正6年大阪府生まれで、横浜専門学校を卒業後、外務省留学生試験合格後、タイ留学。その後、終戦まで在チェンマイ領事館、在タイ日本大使館勤務。 終戦後は外務省に戻り、昭和26年外務省を退官。トーメン(現豊田 ...