第3章-2 初めての船旅 西野順治郎列伝 ⑯

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1937年7月、榛名丸にて初めてタイへ。後列左端が西野さん
1937年7月、榛名丸にて初めてタイへ。後列左端が西野さん

なお、榛名丸での船内生活について、以下の通り想い出を残しています。 「ローマに行く同期入省の下村 清君(後にイタリア大使)を始め、ベルギーに居られた来栖(くるす)三郎大使の長男、良君(当時横浜高等工業学生、後に戦死)、長尾横浜正金銀行(シンガポール支店長)令嬢姉妹らは懐かしい人たちである」と。 なお、留学生試験に合格した岩瀬 幸さんは、別船でリスボン(ポルトガルの首都)へ向いました。 また船内では、背広一着しか持参しなかったので、幾らか恥ずかしい想いをした、とのこと。 豪華客船では、上流社会の服装でパーィーが催されていたからです。 しかし、船上では若いグループの友人も出来て楽しい旅であった、と記述しています。 この榛名丸で撮った写真が残されています。 西野さんは、写真撮影時はいつも脇に位置しています。この写真からも、出しゃばらない性格であることがわかります。 著者も若い頃、神奈川県青年の船で、沖縄、香港、韓国の14日間の船旅を経験しましたが、船上でのメンバーの交流は、別世界のように楽しくいつまでも思い出として残っています。 シンガポールに着いて、日本人の経営する宿に一泊しています。そして翌朝シンガポール駅まで見送りに来てくれています。 シンガポールから二日間かけ汽車(マレー半島横断鉄道)でバンコクへ向かうことになります。 汽車の旅について、次のような感想を残しています。 「マレーの汽車の旅は暑く退屈なものであった。ジヨホール水道を超えた頃から目に映るゴム園や熱帯の風物は初めての私に珍しかった。 しかし、このような風景はどこまで行ってもあまり変化は無いので、その中に飽きてしまった」と。 汽車の中から、英領マレーとタイの相違について、次の通りしたためています。 「双方とも平凡な熱帯地を走らねばならないのであるが、英領マレーの方はゴム園、水田、立派な舗装道路等すべて人口を加えられた自然が対照的であるのに対し、タイは未開の原野の連続である」と。 さらに、「タイに入って驚かされたこととして、タイ文字があまりにも珍しい形をしていることで知らない者には上下の判断がつけられない様である」と。 この記述から西野さんは、日本で事前にタイ語を学ばなかったようですね。何といっても試験合格後1カ月で洋上の人になったのですから、そんな時間はなかったでしょう。

(次回へ続く)

    著者紹介: 小林 豊  

2021年3月20日 タイ自由ランド掲載

 

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