第3章-21 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 37 本省勤務と坪上大使 その3

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第3章-21 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 37 本省勤務と坪上大使 その3

終戦後に捕虜収容所へ移送されるのを待つ日本兵 出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)
終戦後に捕虜収容所へ移送されるのを待つ日本兵 出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)

(西野さんが褒めたたえた内容の続き)
また外交官の2枚舌として以下の通り紹介されています。
「坪上大使の場合もそうである。何回となくシャム政府に対して、不本意ながらも大嘘をつかねばならなかった。

まず最初の嘘は、平和進駐そのものである。勿論シャムの主権は認めるからビルマ、マレー作戦に必要な期間中だけ日本軍のシャム通過を容認してほしいと申し入れた。

しかるに、終戦の日までシャム国の首都盤谷に日本軍指令部が設置せられ、その軍隊の中にはシャムを占領地のごとく見做して振る舞うものもあった。

次の嘘は、太平洋戦争勃発翌年早々、商議を開始して同1942年4月成立を見た経済協定である。

これは戦前シャム貨幣100バーツが日本金160圓(えん)程していた為替率をパーに切り替えたのである。
これがため、日本はシャムに必需物質を供給してシャムの物価高は絶対に起こさないようにすると確約した。
しかし、事実はこれを裏切ってしまった。また莫大な日本軍の駐屯費を支出するために、その半額を金貨で支払うことを約束した。

その後東京からバンコクへ現送された金塊は、軍費の5分の1にすぎなかった。
このように坪上大使は、シャムに嫌がられる要求を行うたびに約束した言質は、次から次へと裏切られていった。

その都度シャム代表は怒った。

比較的日本の立場を理解し親日派と目されていたワニット通商局長ですら、坪上大使の前で激怒した事はしばしばであった。」
× × × × ×
西野さんは、坪上大使の交渉に臨む態度に尊敬の念を抱きました。
それは次の内容によって示されています。
× × × ×
「しかし相手はいかに罵倒的言動を多くしゃべろうとも坪上大使はあくまでも静かであった。相手の云を逐一聞いた上で「貴国の立場は充分了承します。しかし、大戦争をやっている日本人としても不本意ながら貴国の期待に添えないことが起こるのは全く遺憾です」と言葉数少なく誠意を込めて語られた。
しかもいつも通訳を通してであった。

これは言葉上手にまかせて感情的になって多くをしゃべれるより、どれだけ効果的であったかはわからない。
本国の訓令と同盟国への板挟みに立った坪上大使の立場は相手にも通じた。
そして大使個人に対するシャム当局者の敬慕は日と共に深まって来た。これこそ危機をはらんだ日タイ外交交渉を爆発から救った唯一の絆で…」

以上の内容を後輩の外交官に伝えたく書き残したのでしょう。

西野さんの伝記の中で、外交官のあるべき姿について書かれた内容はこの部分だけです。
西野さんの考えが、ヒシヒシと伝わってきます。

最後に坪上大使の晩年ですが、3年間の大使の任期を終え、1944年9月東京に帰任、終戦を迎えています。
幸いにも戦犯として裁かれることなく1979年95歳にて人生を全うしています。

(次回号へ続く)

著者紹介: 小林 豊  2022年2月5日 タイ自由ランド掲載

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