第3章-4 本省帰朝 西野順治郎列伝 ⑱

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第3章-4 本省帰朝 西野順治郎列伝 ⑱ 当時のタマサート大学は、法学部、商学部の二学部だけで商学部には、ブンチュー・ローチャナサチヤン(後に国会議員から副総理)が、法学部の同級にはチンダー・ナソンクラー)後に人事院総裁)、ロートビット・ペレラー(後に私が参加する法律事務所のパートナー)、ビィラ・ロムヤナート(後にバンコク銀行副頭取)、クンジン・カノク・サマセーン(女性、後に国会議員)らが在学していました。これらの同級生のお陰で、後に人脈を通じた人間関係を築くことができたようです。これは、いわゆる学閥とみなすことができますね。 彼は1940年(昭和15年)9月、3年間の語学留学を終え任官しています。 その半年前、1940年の4月よりタイ語関係の仕事を手伝うため、毎日午前中だけ公使館へ登庁することになり、このためワチラウット学校を去り、公使館事務所構内の官舎に住み込みになりました。これは、勤務に慣れるためのいわゆるインターンシップのようなものでした。 なお、タマサート大学法学部は翌年3月までに卒業資格を得ています。西野さんは、「弁護士の資格を持っている」と話してくれたことがあります。 ただし、「法廷内での弁護は外国人なので、立てない」と言っていました。 しかし、晩年法廷内で通訳として活躍しています。 1940年9月に任官して正式にタイ国勤務を命ぜられましたが、これと同時に大使館員としての辞令を受けるため一時帰国することとなりました。 この帰朝(帰国)は、東京外務省よりの電報に依り命ぜられたものにして全く予期していませんでした。 9月15日の午後命令を受けましたが、同日は日曜日でしたので何ら準備することもできず、翌16日、1日で仏領インドシナ通過に関する査証の発行や病院における種痘、その他の予防注射を行うなど、各般の仕事を終え、17日早朝に機上の人となったのです。 そして20日に3年ぶりに東京に帰りましたが、ここには余り知人がなく、毎日忙しい仕事に追われていたので、西野さんは東京に対し余り執着は起こらなかったようです。 役人たる者、本省勤務を望むのが当然の世界です。東京に滞在すること約1ヵ月間、そして10月12日に帰任の途につき、途中故郷へ2日ほど立ち寄りました。 そして、17日福岡発の飛行機の客となって、19日にバンコクに帰り着いたのでした。 西野さんの著書によると、ドンムアン空港に着いた時「ほっとした」と書かれています。 次回から、いよいよ大使館員としての活躍が始まります。 お楽しみに…。

(次回へ続く)

  著者紹介: 小林 豊  

2021年4月20日 タイ自由ランド掲載

 

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