第3章-23 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 39 冨田竹二郎先生と西野さん

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冨田先生の代表作『タイ日辞典』
冨田先生の代表作『タイ日辞典』

初めに

西野さんの生涯の中で、付かず離れずの関係で交流していた人に冨田竹二郎先生がいました。
2人ともタイ語を学ぶためタイに留学した経験があり、年齢的にもほぼ同じでさらに関西出身と言う共通の同郷意識もあり交流していたのではないでしょうか。
限られた事実の中から2人の関係について探ってみたい。
× × × ×

冨田先生の紹介

その前に冨田先生について紹介しましょう。

兵庫県神戸市出身で大阪外国語学校(現大阪大学)英語部卒業。支那語部修了。そして1942年から4年間タイとの交換留学生としてチュラローンコーン大学に留学し、タイ語を習得、帰国後大阪外事専門学校(現在大阪大学)で中国語の教鞭をとり、1949年よりタイ語学科の主任となり、大阪外国語大学のタイ語学科の発展に寄与した人です。

65歳で同大学を定年退官するも、その後天理大学でタイ語の教鞭、研究を進めました。

ちなみに、その頃は65歳定年で、私立大学に移籍するのが普通でした。

現在、私立大学の定年は、教員職70歳に延長されています。

その功績により、白象勲章(タイ)、勲三等旭日中綬章(日本)を受けています。

冨田先生は、他に追従を許さない実績として「タイ日辞典」養徳社(1987年)を発行したことが挙げられます。

この辞書は、今後100年過ぎても発行されないであろう超大作です。

ちなみに、著者はタイに行った頃まもなく発行されたその辞書を使用しました。

2人の出会い

ここで冨田先生の来タイ時について説明をしておきましょう。

同氏が留学生としてバンコクに来た時は1942年4月でした。

この時西野さんはチェンマイ領事館に勤務していましたが、「3人の留学生が日本から来る」という話を聞いて伺いを立ててバンコクへ出張しています。

後輩の留学生に対して、大いに関心を持ったからでしょう。

また、タイ在住の先輩として、後輩の面倒を見ずにおれなかったのでしょう。

他の2人は、河部利夫先生と医学系の留学生でした。

この出会いから約60年間、2人は生涯交友を温めました。

なお、冨田先生は、2000年10月、西野さんは翌年の3月にお亡くなりになっています。

× × ×

ここで、二人についてさらに紹介したい。

冨田先生は、西野さんより2歳年下で1919年に出生しています。

またタイに留学生として学び始めた時は23歳で1942年です。

正確には冨田先生が来タイした時、西野さんはチェンマイ領事館勤務でした。

この時代、日本とタイの友好関係が良好だったので、交換留学を行う風潮が高まってのことでした。

同様に、当時日本の存在が大きかったのでタイ人は日本語の必要性を認識して多く日本留学した時代でした。
戦時中にもかかわらず、4年間という日本政府の派遣のため、終戦による日本帰国を免れ1946年に留学を終えて帰国しています。

(次回号へ続く)

著者紹介: 小林 豊  2022年3月5日 タイ自由ランド掲載

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