第3章-5 任官後 西野順治郎列伝⑲

読了時間 < 1
1941年(昭和16年)に開設されたタイ南部のソンクラー日本領事館 (タイ国日本人会提供)
1941年(昭和16年)に開設されたタイ南部のソンクラー日本領事館 (タイ国日本人会提供)

1940年9月、タイはフランスの植民地であったインドシナとの間に国境紛争を起こし、その調停を日本に依頼するため、時のピブン内閣(ピブンソンクラーム首相兼国防大臣)は、ルアン・プロームヨーティ国防副大臣一行を日本に派遣しました。

バンコク丸で渡日した一行が神戸入港の直前になって、西野さんが通訳のため急遽一時帰国を命ぜられました。開通したばかりの大日本航空会社の日タイ定期便「乃木号」で9月14日ドンムアン空港を経ち、ハノイ、
台北でそれぞれ1泊、3日目に東京羽田空港に着きました。それにしても3日かかっての日本行き、今では考えられませんね。

この時代、すでに定期便が飛んでいましたが、特別な人のみ搭乗できたのでしょう。

この日本帰国の際、お兄さんの遼太郎氏が面会のため東京山王ホテルまで来て、初めて祖母ヨシさんの死を知らされました。

それは1937年9月で、タイへ旅立った直後であったので、本人を落胆させないために秘していた、と告げています。

任官された頃、タイと仏領インドシナとの国境戦争が激しくなり公使館も多忙を極めてきました。

1941年1月17日、タイ海軍の旗艦トンブリ号がフランスの巡洋艦に撃沈されたのを機に、日本は調停に入り停戦協定が成立しました。

西野さんはこの後、出来た国境画定委員会に配属となり、サイゴン(現ホーチミン市)に駐在することになりました。

この間、バンコク、サイゴン間の舗装のない道路を自動車(当時は冷房がなかった)で走り回っている間に結膜炎を起こしています。

今でも陸路で国境のアランヤプラテートを過ぎ、カンボジアへ、プノンペンからホーチミン市への道のりは大変です。

当時、川に橋が架かってないため、フェリーに車を乗せて渡りました。そのため、時間がかかりました。

この間4月1日には勝野敏夫領事からの要請で、シンゴラ(現ソンクラー)領事館開館の応援に出かけました。

戦前の事について詳しい瀬戸正夫氏(バンコク在住の報道写真家)に、西野さんについて語ってくれた内容を紹介します。

「最初に西野さんに会ったのは、昭和16年4月でソンクラー(タイ南部)領事館開設式の際、父に連れられて出席しました。その時私は10歳で西野さんが大使館員である、と知りました」

西野さんは、この時の心境を次の通り語っています。

「あまり殺風景な寒村であったので、ここに在勤される人々に同情を寄せながらも、自分もいつ何時同地勤務を命ぜられるやも知れぬ、との覚悟を抱いて躊躇した」と。

同じ年、12月8日開戦と共に日本軍がソンクラーに上陸しています。この作戦をサポートするため、事前に領事館を開設したのでしょう。もちろん現在、その領事館はありません。

ソンクラーからバンコクに帰って、チェンマイ領事館を開設準備のために、同時に出張するよう命令が出されており、さらにチェンマイ勤務を命ぜられてしまいました。次回から、チェンマイ勤務の話に進みます。

(次回へ続く)

  著者紹介: 小林 豊  

2021年5月5日 タイ自由ランド掲載

 

関連リンク