梯2章 1.生前足跡 横浜専門学校から外務省へ 西野順治郎列伝 ⑩

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梯2章 1.生前足跡 横浜専門学校から外務省へ 西野順治郎列伝 ⑩

西野さんが入学した頃の横浜専門学校(神奈川大学提供)
西野さんが入学した頃の横浜専門学校(神奈川大学提供)

横浜専門学校から外務省へ

横浜専門学校入学の話の前に、海外雄飛の話をしましょう。

西野さんは、少年時代に愛読した少年倶楽部の海外に関する小説、特に南洋一郎という南方(注:当時はこの方面を南洋と言った)を舞台にした物に憧れていました。

その上、特高警察に睨まれてからは益々海外雄飛の夢を持つようになったよう、と記述しています。(注:特高警察に睨まれたことは、第6回の掲載で触れている)

横浜専門学校に貿易学科があるのを知ったのは、前の年の12月で同校が行った給費生試験が終わった後とのこと。(注:給費生試験は、学校が独自に行っている奨学制度で現在も続いている)

当時貿易学科は日本で、初めての学科で、ユニークでした。

この時既に外交官のコースを目標としていたのではないでしょうか。この点は、不明ですが、海外雄飛を考えていたのは間違いないようです。

同学校に貿易学科があり、この分野に進むことによって、西野さんの将来の道が開けていくことになります。(説明:当時の専門学校は今の大学に相当し、3年間の履修後実業界に進むことを前提としていました)

なお、この専門学校が現在の神奈川大学の前身で、今はこの貿易学科が存在しません。

試験は翌年の2月に、大阪大学医学部の校舎を借りて行われました。結果は合格で横浜に向かうことになります。

ここで、戦前の学制について少し説明します。小学校は6年で、これを尋常小学校と言います。普通の人は、これで就学が終わりでした。現在なら高卒と同等でしょう。

小学校終了後中等教育は、5年制の中学校と7年制の高校の二つに別れていました。つまり、小学校終了後、中学校と呼ぶ5年制の学校と、高校と呼ぶ7年制の学校と中等教育が二つの進路に分かれていました。

西野さんは、中学校5年卒業後、3年制の専門学校に進学することになります。

なお、戦前の教育制度について第6回の中で、述べていますので一部重複した内容になっています。

1935年(昭和10年)の春、中学卒業と同時に横浜へ旅立ちました。この時18歳になっています。

西野さんは、大阪の山奥から横浜へ進学するという行動を「旅立つ」と表現して使っています。この旅立つという表現に格別の意味があるように思います。

つまり、現在の「旅に出かける、旅行に出発する」という意味ではなく、親元を離れて都会に行き大人として一本立ちする、という決意を含んだ言葉に思えます。

(次号へ続く)

著者紹介: 小林 豊

 

※記述ミスに対するお詫び

列伝3回にて、「西野家も床屋を務めたこともある旧家で…」と書きましたが「庄屋を務めた…」の間違いでした。お詫びして訂正します。

調べたところ「庄屋を務めた…」が原本に書かれていました。書き写す際「庄」を「「床」に間違えて転記してしまいました。

これにより、床屋の説明も削除します。この事については、読者から指摘がありました。この紙面を借りて御礼申し上げます。

2020年12月20日 タイ自由ランド掲載

 

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