梯2章 2.生前足跡 横浜専門学校から外務省へ 西野順治郎列伝 ⑪

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在りし日の神奈川大学学長、米田吉盛(神奈川大学提供)
在りし日の神奈川大学学長、米田吉盛(神奈川大学提供)

今回は西野さんが専門学校で学んだ様子や大学創業者米田吉盛先生のプロフィールについて若干紹介したい。

当時の横浜専門学校(現在の神奈川大学)は創立(昭和4年創立)後、日が浅く新興の気分に溢れていました。

 

学生は給費生試験に集まった秀才組と、逆に他校の入試に失敗したグループの混成でした。

一方教授陣は、一流大学の有名な教授を多数講師として招いていました。

従って、真剣に勉強する学生にとっては不足のない学園、と記述しています。

西野さんは、薫陶を受けた教授名を具体的に挙げています。

ここは、省略せずに紹介しましょう。

まず刑法の林 頼三郎校長(1929年、昭和4年横浜専門学校設立初代校長)

次に、国際法の横田喜三郎、経済学の中山伊知郎、会計学の太田哲三、商工経営の美濃部亮吉、産業能率の上野陽一、商業数学の久武雅夫、英語のエドワードガントレット。

以上の教授陣は、有名な方でそれぞれネット上にて紹介されています。

とりわけ、美濃部亮吉は私が20歳の頃、東京都知事に選ばれて、老人医療費無料化政策を進めたので、覚えています。

また、江本先生は日曜日などにESS(ENGLISH SPEAKING SOSIETY)の仲間を連れ出し、近郊ハイキングしながら生きた英語を指導された、とのことでこれに参加したことにより、会話力が増し外交官試験合格に大きく影響したのでしょう。

さらに次の人から、個人的指導を仰いだ、と書かれています。

米田吉盛(神奈川大学へ昇格後初代学長)、倫理学の朝比奈宗源(後の臨済宗円覚寺管長)Vivid Englishの江本茂夫(陸軍の語学将校)

なお、米田吉盛先生には1985年死去されるまで終始ご指導いただいた、と書かれています。

ここで、西野さんが薫陶を受けた米田吉盛先生について若干紹介させて下さい。

1898年(明治31年)11月生まれ、小学6年(尋常小学校)卒業後、京都の呉服店で丁稚奉公(でっちぼうこう)として1年間働く。

その後、台湾の山本金物店で働き、20歳の時に新聞配達店で住み込み働きながら中学校(今の高校)へ進みます。

そして中央大学専門部法学科入学・卒業、その後横浜学院・横浜専門学校を創立。略歴を見るに「努力家」の一言に尽きますね。

話しを戻して、留学生試験に合格できたのは西野さん自身の血のにじむような努力とその才能を認めた教授陣がバックしたからでしょう。

(次号へ続く)

 

 

著者紹介: 小林 豊

 

2020年12月20日 タイ自由ランド掲載

 

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