第4章-3 戦後のバンコク 西野順治郎 列伝 55 バンブアトン収容所 その3
バンブアトン収容所を語る時、微笑ましい話があります。
それは 、6歳になる浅丘ルリ子さんが、収容所で収容されて過ごしていたことです。
このことは、西野さんも著者に話してくれたことがありました。
女優の浅丘ルリ子さんといえば、戦後映画界で石原裕次郎や他の俳優とコンビを組み一世を風靡(ふうび)した人です。
その作品は、今でもYouTubeで視聴することができます。
以下、ネットでの内容を紹介します。
「浅丘ルリ子は満州国新京市(現・長春)に、4人姉妹の次女として生まれました。
彼女の父・浅井源治郎氏は満洲国経済部大臣秘書官を経て1943年にタイのバンコクへ軍属として転居して従事し終戦を迎えました」
そして、収容所生活を余儀なくさせられたのでしょう。
その時から、可愛い顔をしていて、みんなから可愛がられていました。
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この事実は、瀬戸一夫氏の本にも書かれています。
浅丘さんは、これが縁で1991年7月15日に行われたバンコク日本人学校校舎増設記念に招かれ、同校を訪れています。
この時対応したのが、当時日本人学校の理事長を務めていた西野順治郎氏でこの時の写真が残されています。
重ねて、今でこそ浅丘ルリ子という女優は知っている人が少なくなりましたが、当時はとても有名なスーパースターだったんですよ。失礼、現在も元気でテレビ出演しています。
余談ですが、知人を通して本人に連絡しましたが、「どこの馬の骨」として相手にされませんでした。(当然の対応でしょう)
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このバンブアトングの生活、日本への引き揚げは、当事者にとっては苦労があったものの、日本人の海外での集団帰国が整然として行われた、稀有(けう)な例でしょう。
また、タイ政府の影、日向(ひなた)の支援も見逃すことが出来ません。
タイを去る日本人全員にお米5キログラムを支給しています。
当時、日本の食料不足を知っていたので、手土産としてあげたのでしょう。
タイ人の「チャイデイ」(良い心)が伝わってきますね。
戦前からタイと日本との交流が脈々と続いていることを感じさせてくれます。
なお、タイに残留を希望した人が多数いましたが、タイに扶養者がいること、など条件が厳しく100余名と聞いています。
日本へ帰った人の中には、戦後タイとの条約が結ばれることにより、タイに戻る人もいました。
その中には、既に紹介した日本食堂「花屋」の家族もいました。
タイに残留した一人に横田仁郎画伯がいますが、彼については追って詳しく紹介します。
(次回号へ続く)
2022年10月20日 タイ自由ランド掲載