第3章-9 チェンマイ 慰安婦のこと 西野順治郎列伝㉔
以下の内容は、チェンマイでの出来事なので「自由シャムの横顔」より引用して紹介します。
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1946年7月私は引き上げ帰国し、外務省の大臣秘書官室で寺崎外務次官の秘書を拝命した。
その頃、日本各地には連合国占領軍が駐屯しており、これら軍との連絡のため外務省出先機関として地方終戦連絡事務局が設置されていた。
地方の終戦連絡事務局から本省に送られてくる報告は、次官に提出されたが、私はそれに目を通すことができた。その中で時々目に留まったのは、占領軍兵士の良家の子女に対する暴行行為であった。
道を歩いている女性をいきなり捕らえてジープに乗せて運び、暴行を加えるなどの例が多かった。
被害者の中には悲しみのあまり首を吊って自殺した人もあったようである。
しかし占領下の日本の新聞は、これらの事件を記事にすることを許されなかった。
これらの事件は戦争終了後、起こったことである。
ましてや、自分の明日の命がわからない戦時中には、いずれの国の軍隊でも、同様のことがあったと想像される。
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太平洋戦争開戦当時に、チェンマイの日本領事館にいた私のところに進駐してきた日本軍の隊長が、「バンコクには日本から来た女性の慰安所が出来ているが、チェンマイまでは回してもらえない。良家の子女と事故を起こすことを防止するために、現地で慰安所を作りたいから援助してほしい」と依頼された。
よって私はこの旨を県知事に伝えたところ、知事は協力してやると言い、数日後に30人ほどの慰安婦志願者を集めてくれた。
これらの志願者の中から10人ほど採用するのに、軍医の身体検査と隊長のインタビューが行われた。
このインタビューに私は立ち会ったが、志願者の全員が売春婦を業としていた経験者ばかりであった。
当時は日本人女性も多く慰安婦として各地に従軍していたが、そのほとんどが、戦前の遊郭や赤線地帯の出身者やその他の売春経験者であったと聞いている。
その頃は日本の国内では若い男性が少なくなっていたので、この種の業界は不振をかこっており、彼女たちは進んで志願したもので、強制連行したものではなかったのである。
しかも、当時兵の給料は20円くらいであったが、彼女たちは1日10人の客を相手にし、兵の1ヵ月の給料を1日で稼いで贅沢な生活を楽しんでいたのである。
(次回へ続く)
2021年7月20日 タイ自由ランド掲載