西野順治郎列伝 97第12章- 1 – 3 会報「クルンテープ」の創刊
会報「クルンテープ」の創刊
大峡会長第29代会長山本一(川崎汽船、在任1968年から1970年)の交代があった頃には、会員数は1500名に達し名実ともにタイにおける日本人の親睦団体として充実しつつあった。
そんな中、基本的な会としてのツールのひとつを欠いているとの指摘がなされた。それは、会員相互の情報を交換できる広報誌が無かったことであった。
発行を望む声を背景に、大峡会長の時代からその準備が始まり1968年1月に「クルンテープ」の創刊号が発行された。
発行は「泰国日本人会」となっている。森川純行氏(日本郵船)が初代編集長を務めたが、日本語の活字印刷は難しく、「ガリ版と版下書きの手法を織り交ぜてペンの書き」文字で冊子を作成する作業が始まった。
編集委員には女性が多く取材や構成に奮闘した。中でも日本で印刷関係の仕事に携わった経験のある山本みどり(1928年から2004年)の献身的な努力が初期の刊行を支えた。
同年8月に編集長は西野順治郎に引き継がれたが、西野はタイ当局の発行許可を得ていないことに気がつき、1969年に正式認可手続きを行った。
創刊号から今日(通算547号を数える)まで、日本人会が機関紙ないし会報としての「クルンテープ」は大きな役割を果たしたと言えよう。(以下省略)
新井事務局長は、1991年まで勤務し会館購入を裏で支えた。
(省略)
会費の値上げをしないで、会館購入できたことを本田は奇跡と呼んでいる。確かにそれは奇跡と呼べるほどのことであったに違いない。
しかし、私には奇跡というより当時の会長を始めとする幹部の人力の賜物であるとしか思えない。
面白いことに、歴代会長の変遷を眺めていると一つの特徴に気がつく。
1979年に第30代会長の西野が退任した後には、31代園山雄三(三井物産)が就任し、1991年に第43代会長三村洋三(トーメン)が就任するまで、ほぼ毎年会長が交代している。
そして、この間の会長は11名を数えるが全員がいわゆる代表的日系企業のトップである」(著者注釈:つまり短期間の会長任期では、実績が上がらない、という事)
以上で、同記念誌からの抜粋終了。
(次回号へ続く)
2024年8月5日 タイ自由ランド掲載
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.