第3章- 19 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 35 本省勤務と坪上大使

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戦後にバンコク郊外の捕虜収容所への移動を待つ日本兵 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
戦後にバンコク郊外の捕虜収容所への移動を待つ日本兵 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

新年おめでとうございます。今年初回の西野順治郎列伝です。 今年は、今後戦前の日本大使館勤務に続き、終戦、日本への引き上げ、商工省勤務、そしてトーメン入社へと、話が進展して行きます。また、取材協力頂いた皆様にはこの紙面を借用してお礼申し上げます。 今後、少なくとも100回以上の連載を予定していて、合計5年以上の長丁場になりますが、伏して皆様のご協力をお願いする次第です。 × × × × 1943年4月、西野さんは僅か一年半のチェンマイ勤務を経てバンコクの大使館に転勤を命ぜられ、情報部に配属になりました。 西野さんが戦時中仕えた大使の中で、坪上大使を大変評価していました。 同大使は、誰からも「神様」の愛称で慕われていたとのことです。 昭和16年10月西野さんは、坪上大使が着任する前月にバンコクの大使館からすれ違いでチェンマイ領事館に赴任しています。 しかし、その1年7ヵ月後(昭和18年4月)に坪上大使にバンコクに呼び寄せられています。 なお、坪上大使は3年間の任務を終えて1944年(昭和19年)9月、日本に帰任しています。 戦前からタイに住んでいる瀬戸正夫さんは、西野さんの存在について「大使秘書の身分だが、実質的に大使だった」と述べています。 × × × 1943年7月 東条英機首相が来タイし、ピブーン首相と会見しましたが、その際西野さんが通訳を務めました。 情報部の任務としては、タイ要人の動向を見張ると共に三国同盟の趣旨に基づき、タイのマスコミを監視、指導することでした。 西野さんはプリーディの腹心で「自由タイ」の中心人物であったルアン・スパラチャーサイ内相(海軍大佐)に近づき、この人の案内で夜間しばしばメナム河岸にあった摂政邸を裏口から訪問しては、両国の将来を語り合い、その内容を坪上大使に報告していました。 なんと、凄い離れ技ですね。時の摂政宅に押しかけていたんですね。 この頃、タイ政府の指導者は、表では同盟国として日本軍に協力しながら裏では「自由タイ運動」を通じて連合国に内通していました。その最高指導者は、時の摂政プリーディ・パノムヨンでした。

(次回号へ続く)

  著者紹介: 小林 豊  

2021年10月20日 タイ自由ランド掲載

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