第3章-27 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 43 阿波丸と西野さん その2
今回から2回にわたり、西野さん家族が阿波丸に乗船しなかったため、災難に合わなかったという出来事を西野さんの書物より紹介します。
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民間の所有する商船は船舶運営会の指揮下に置かれ運用に供されていた。
このため、世界第三の商船王国を誇った日本の商船隊も戦争の犠牲となり、全滅に瀕していた。
たまたま1945年初めに、交戦国間で中立国を通じて、敵国に抑留されている捕虜や民間人に慰問品を送る話がまとまり、東南アジア地区で抑留されている連合国側被抑留者への慰問品を運ぶため、当時残存していた日本郵船会社所属の優秀船阿波丸(1万1千トン)が使用された。
このため戦時国際法に基づき、阿波丸は日本から昭南(シンガポール)への往復航行に関して、交換船として航海の安全を保障され、2月17日に門司を出帆し、高雄(台湾)、香港、サイゴン(現ホーチミン市)、昭南に寄港して、3月28日に帰途についた。
その航路は交戦国間で承認の上、絶えず連絡を取りつつ航行していた。
しかし、4月1日夜以来、全く連絡が途絶し、日本政府は百方捜査に努めたが、消息が得られなかった。ついに政府がスイス政府を通じて、アメリカ政府にその消息の通報を要求したところ、7日にアメリカ政府は一潜水艦が阿波丸を撃沈したと公表した。
この船は、当時安全を保障されたただ一つの船であり、南方に駐在する外交官とタイで重要な打ち合わせをするために、竹内大東亜省次官一行が乗船していた。
この一行はサイゴンで上陸し、バンコクで駐タイ山本大使はじめ、駐ビルマ大使らと、本国と充分連絡が取れない状況下で、連合軍の反攻に備える対応策について打ち合わせを終えて、昭南から再度乗船し帰国の途についた。(注:サイゴンから陸路カンボジア経由でタイに入った)
この他帰国できずに待っていた、現地在留の邦人からの乗船申し込みが殺到した。
これに対し大使館では、現地軍と相談のうえ、家族同伴の館員を優先的に帰国させることにした。
私も妻と長女(2歳)がいたので、優先帰国者のリストに入れられたのであるが、山本大使より特に私に、「タイ語要員として必要であるから残留してほしい、ただし家族を帰しても良い」と言われたのでバンコクに残ることにした。
妻も「私が残るなら自分たちも帰国しない」と言って、結局私は家族と共にこの阿波丸に乗船しなかった。
著者コメント:奥さんの一言が生死を左右しました。
(次回号へ続く)
2022年5月5日 タイ自由ランド掲載