西野順治郎列伝 99 第12章- 1 – 5 川満富子さんと西野順治郎さん
初めに
西野順治郎さんは、日本人会会長を連続8年間務めましたが、その間に事務局として支えた人に川満富子さんがいます。
会長と事務局という立場で日本人会をリードした二人について、これからその足跡を追ってみたいと思います。
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二人の出会い
川満さんは1968年(昭和43年)22歳で日本人会事務局に入っています。
その年、西野さんは日本人会理事の2年目で編集部を担当していました。
この2人の出会いは、オーバーに表すと「邂逅(かいこう)」と言えるでしょう。
川満さんが日本人会の事務局に入った時、西野編集担当理事は川満さんに「良い文章を書くねー、編集を担当しませんか」と誘っています。
それは、日本人会広報誌クルンテープの編集記事に川満さんが自ら進んで記事を書いていたのを、西野さんの目に止まったからです。
西野さんは、川満さんの記事を見てこれはなかなかセンスのある文章だ、と感じたようです。
このことから始まって、川満さんはクルンテープの編集に携わることになりました。
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川満さんの紹介
大学を卒業してすぐにタイに渡った川満さんは、大学時代に新聞部に属しており編集に興味がありレタリングも行っていました。(著者注:レタリングとは文字の図案化のこと)
その経歴は、クルンテープの編集を担当するのに大いに役立ちました。
定年55歳になるまでの33年間、日本人会事務局に勤務し日本人会の活動に大変貢献しました。
この功績に対して感謝状1枚ぐらいは出しても良かったのでは、と悔まれます。
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この間川満さんは日本人会の事務局として、編集を担当しクルンテープの発行に努めました。
なお、翌年川満さんは事務局長代行から事務局代表に就任し、1991年(平成3年)に事務局長代表から事務局長に昇任しています。
以来10年間事務局長を勤め、2001年(平成13)年に定年により事務局長を退任しています。
この経歴を見ると、川満さんは人生のほとんどを日本人会事務局に勤務し日本人会活動に大いに寄与したということができます。
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西野会長と川満さん
以上述べたように、川満さんは西野さんという編集に理解のある理事に出会ったためにのびのびと編集に従事することができました。
西野さんも、編集に興味があったので川満さんの編集の考えに理解を示し自由奔放にさせました。西野さんは、細かいことにこだわらない性格でした。
川満さんの編集に対する考えについて、西野さんは一度たりとも反対することなく「ふんふん」と返事をして川満さんの考えに賛成していました。
ちなみに、西野さんはクルンテープ誌に「日タイ関係の歴史」のタイトルで約5年間連載投稿しています。
西野会長の投稿のお陰で、他の理事、編集員に対しても投稿をお願いすることができ、その分仕事がやりやすかったようです。
(次回号へ続く)
2024年9月5日 タイ自由ランド掲載
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.