中学校入学からその後、西野順治郎列伝 ⑥

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西野さんが幼年期に遊んだ金熊寺(きんゆうじ)の現在の写真:著者撮影
西野さんが幼年期に遊んだ金熊寺(きんゆうじ)の現在の写真:著者撮影

父親は西野さんに対してもお兄さんと同様、師範学校(注:教師になるための専門学校)への進学を望んでいましたが、次男であるため旧制高等学校への受験が許されました。

そこで西野さんは中学4年終了時、比較的競争率の低かった第三高等学校文科丙類(現京都大学教養学部)を選んで受験して合格しました。

しかし、この喜びも束の間で、その二学期には退学させられる運命となりました。

かいつまんで言うと、お兄さんは大学への進学を許されなかった不満のあるところに友人の誘いで労農運動に参加していました。西野さんはお兄さんの社会主義に関する書物を読み、お兄さんと共にエスペラント語講習会にも出ていたので、特高警察から要注意人物とみられていたようです。

そこでたまたま軍事教練の教官と些細なことでトラブルを起こし、これが原因で放校処分を受けるに至り、中学に戻り5年に編入しています。

ここで戦前の教育制度について少し説明します。

当時は「初等教育」「中等教育」「高等教育」と3段階に分けていました。初等教育は6年制で今の小学校と同じで、義務教育でした。

中等教育では、中高を一貫させた『7年制高校』、『5年制中学校』、そして師範学校に進学できる『高等小学校』があり、さらに高等教育は今の大学に相当し3年間で帝国大学がありました。

その他に専門学校と呼んだ商業・工業・農業の3年課程、医学専門の4年課程がありました。

当時普通の人は尋常小学校と呼ばれる6年間で教育を終えていました。

また、小学校と中学校では、優秀であれば教育課程を修了せず卒業1年前に次のレベルの学校の試験を受け入学できる、いわゆる飛び級も可能だった時代です。こうしてみると当時様々な進学ルートの選択肢がありました。

ちなみに、西野さんが入学した専門学校は今の短大に相当し、3年間の履修後、実業界に進むことを前提としていました。

後日談になりますが、特高警察から追われていたことについて西野さんに質問したことがあります。

当時昭和の初め、世界恐慌が始まり日本の農村では貧しさのため娘を遊郭に出していた時代であり、この様子を見て社会を変えなければ、と思ったと話してくれました。


コメント:小生自身が西野さんと接し、更に前述の環境で生まれ育ったことを自分の目で確かめ、彼の質実剛健の性格がどのようにして成ったのか、わかった気がしました。

また、兄の影響で読んだ社会主義の書物が、西野さんのその後の人生に少なからず影響を与えることになったのでしょう。

(次号へ続く)

著者紹介: 小林 豊

2020年10月20日 タイ自由ランド掲載