西野順治郎列伝 142 第13章-16 タマサート大学東アジア研究センターの紹介



初めに
西野順治郎氏は1984年(昭和59年)5月から1988年5月までの4年間、
タマサート大学東アジア研究センターの理事に就任しています。
この事実は、西野氏が同センターの設立に深く関わっていたことを物語っています。
最初に断っておきますが、このプロジェクトは日本では「タマサート大学日本研究センター」という名称になっており、タイでは「タマサート大学東アジア研究センター」と呼称が異なっていました。
この名称の違いについては後述するとして、ここでは同センター設立の経緯と、理事に就任に至った流れを紹介します。
このセンター設立の背景
当時、日系企業によるタイへの投資が急増し、それに伴って日本語ブームが起こっていました。
日本語を話せるタイ人の需要が高まる一方で、日本語教育を行う施設や人材は慢性的に不足していました。
こうした状況を受け、タイ政府と日本政府は「日本語教育の整備が必要である」との共通認識に至り、タイ政府は、日本政府に対し、教育分野での支援を正式に要請しました。
計画の始動
この研究センターが完成する5年前から、日本政府は現地での事前調査やボーリング調査を実施していました。
当時、西野氏は、日本人学校を運営する泰日協会の運営委員長を務めており、タイにおける日本人社会の教育分野で第一人者と目されていました。
そのため、在タイ日本大使館の人見宏大使より、西野氏に対し、この計画への協力要請が持ち掛けられたのです。
パイシット教授との連携
センター設立にあたり、西野氏は当時タマサート大学法学部長だったパイシット教授(PHAITH PHIPATAKUN)と緊密に連携していました。
パイシット教授は1937年生まれ。1959年にタマサート大学法学部を卒業後、日本政府の推薦で東京大学法学部に2年間留学。さらに、ドイツ・ボン大学で博士課程を修了しています
また、両氏は、ロータリークラブの会員でもあり、こうした交流を通じて深い関係を築いていました。
西野氏がタマサート大学の出身であったことも、同大学への関心と貢献の動機になったと言えるでしょう。
センター竣工後、パイシット教授は西野氏に理事就任を要請し、西野氏はこれを快諾しました。以後も、センター運営に積極的に関与していくことになります。
設立の経過
日本研究センターは、正式な建物の完成に先立ち、1981年にタマサート大学構内で発足しました。
その後、同大学は日本政府に対し正式に支援を要請し、福田赳夫元首相、ならびに当時の総理大臣・中曽根 康弘氏からも支援を得ることができました。1983年5月の中曽根氏のタイ訪問時には、「日本研究センター」設立への支援を正式に表明され、同年年7月、日本政府は、約11・5億円の無償援助決定。
これにより、タマサート大学構内に日本研究センターの建物が建設されることになりました。
(次回号に続く)
2026年7月5日 タイ自由ランド掲載








