西野順治郎列伝 117 第12章- 4 アマリングループの松田嘉久氏と西野順治郎氏 3

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戦前、出征時の写真、奥さんと共に:ご家族提供
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松田社長を通じて鹿沼グループと関係を持つことになった西野氏ですが、深い関係に至ることはありませんでした。

西野氏は、さまざまなビジネスの案件に対しても、軽率に関わることなく、ひたすら法律的な観点からアドバイスを行っていました。

尋ねられない限り口を挟まず、寡黙な姿勢を貫いていたと言われています。

なお、西野氏は、アマリングループから買収したサリカグループ傘下のゲイソントラベル社の社外取締役に就任していますが、これは松田社長の勧めによるものです。

× × × ×

さらに松田氏との関係について述べます。

西野氏は、1972年に日本人会会長に就任し、翌年、松田氏に「三願(さんこ)の礼」をもって、日本人会の理事に就任するよう依頼し、その後11年間にわたって親交を深めました。

この二人の関係は、まさに「刎頸(ふんけい)の友」と呼ぶにふさわしいものでした。

さらに、西野さんは松田氏を通じて、アマリンホテルのタイ側のオーナーであるKIAT WATTANAVEKIN氏と親交を深め、後にそごうデパートのタイ進出支援を行うことになります。

この件については、後日紹介します。

  × × ×

次に、松田氏の孫に当たる山本元さん(51歳、1974年2月13日生まれ)にマイクを向けました。

質問:松田嘉久氏について、どのように思っていますか?

答え:いつも時代を先駆けた先駆者的存在で、憧れの人でした。

子供の頃からその姿に憧れ、叔父を超えるような偉大な人になりたい、と思い続けてきました。

なお、松田氏の葬儀は100日にわたって通夜が行われたとのことです。

西野氏でも1カ月間の通夜でしたから、松田氏の影響力の大きさがうかがえます。

  × × ×松田社長と著者

ここからは著者自身の体験をもとに書き進めます。

著者が初めてタイを観光で訪れたのは1974年の頃です。

当時購入したタイの旅行ガイドブックには、飛ぶ鳥を落とす勢いだったアマリンホテル松田社長が紹介されており、日本とタイの友好の大切さを説く内容が掲載されていました。

そのページを読んだとき、「将来タイに行ったらぜひ松田氏に会ってみたい」、と憧れを抱いたものです。

しかし、その思いは果たせませんでした。というのも、著者がタイに移住する2年前、1982年にアマリンホテルは閉鎖されてしまったからです。

  × × × ×

最後に、晩年の松田氏について触れておきます。

「盛者必衰」の言葉どおり、晩年の松田氏は凋落の運命をたどることになりました。

しかし、それでもなお、輝かしい業績を残した人物であったことは間違いありません。

(次回号に続く)

                

(次回号に続く

著者紹介: 小林 豊
1948年北海道生まれ、自称フリー作家、在タイ38年、神奈川大学卒業、小林株式会社創業者、西野順治郎氏と長年交流。
著者へのメール:kobayashiyu99@gmail.com

 2025年6月20日 タイ自由ランド掲載

ペルプ 西野順治郎

 

ペルプ タイの日本人会

 

 

Tensui
Tensui

🇯🇵✨タイ日系社会の歴史を支えた名士たちのエピソードに心が温まります。
1974年、田中角栄首相の訪タイ時に機転を利かせた松田氏の行動、
そして西野氏との深い信頼関係…。
バンコクの地で日本人としての誇りと使命感をもって尽力された姿に、
改めて敬意を抱きます。🙏🌸

#日タイ友好 #JCC #日本人会 #昭和の男たち #バンコクの歴史 #田中角栄 #アマリンホテル


 

 

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