西野順治郎列伝 115 第12章- 2 アマリングループの松田嘉久氏と西野順治郎氏


初めに
1970年代にバンコクにアマリンホテルが存在していたことは、ほとんどの人が知らないでしょう。 著者もその一人です。この話は、長くタイに住んでいた加藤郁郎氏(※同氏については追って紹介)より聞きました。 このホテルを経営していた松田嘉久氏と西野順治郎氏が、交流していた事実が明らかになったため、当時の状況を探ることにしました。 幸いにも、松田氏の孫にあたる山本元さん(51歳、1974年2月13日生まれ)は、松田エンジニアリングの会社を引き継いでおり話を聞くことができました。(※松田氏は、ホテル経営の傍ら、松田エンジニアリングの会社も経営していました)
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松田嘉久氏は1917年11月28日、奈良県大淀町生まれ、1994年1月29日に亡くなっています。
日本陸軍機械科部隊に配属され、各地を転戦し、泰麺(たいめん)鉄道の軌道建設のためにカンチャナブリで現場に従事しました。驚くことに兵役時は下士官だったそうです。
終戦後は、バンブアトン収容所に収容されましたが、仲間と共に脱走し、田舎に潜伏して気をうかがっていました。
三年間の逃亡生活を経て、ほとぼりが冷めた頃(1949年)、バンコクの西トンブリに姿を現しました。
そこで電気機器、特に電動モーターのリサイクル修理、販売の仕事を始め、これが大当たりしました。 この成功により、中華系商人との人脈が繋がっていきました。
ちょうどその時、いすゞ自動車の会社がタイに進出してきたので、一時いすゞの販売代理店になり、そののち、松田商会を設立し、手広くビジネスを開始しました。
その後、タイ資本の支援を受け、プロンチット通りに「アマリンホテル」、シーアユタヤ通りに「ニューアマリンホテル」をオープン。日本の駐在員、出張者、観光客の宿泊施設として利用され、繁栄しました。(※アマリンホテルは、現在のアマリンプラザに、ニューアマリンホテルは、SIAM City Hotelを経て現在
The Sukosol Hotel Bangkokとなっています)
これらのホテルは単なる宿泊施設にとどまらず、土産物屋、コーヒーショップ、旅行社などを併設し、 日本人にとって利便性の高い拠点となりました。
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ホテル経営の傍ら、レストラン、バー、ナイトクラブを兼ねた「サニーシャトー」を経営し、VIP接待の場として使われていました。
飲食を兼ねたこれらの娯楽施設は後の「アフターファイブ文化」として日本人に広がっていきました。
客層は、日本の商社の支店長、社長クラス、そして中小企業の社長クラスが多かったようです。 もちろん、西野氏もこの施設の常連客でした。 そんな関係で二人は親しくなっていきました。
(次回号に続く
2025年5月5日 タイ自由ランド掲載

📸バンコクの語り部・瀬戸正夫さん。
94歳の今も現役で活躍するその姿に、ただただ感服します。戦前・戦後のタイでの体験を綴った著作は、まさに貴重な歴史の記録。3万枚に及ぶ写真とともに、日タイの架け橋として歩んできたその人生に、深い敬意を抱かずにはいられません。
瀬戸さんの功績が、もっと多くの人に知られ、そして未来へと受け継がれていきますように。✨📚🇯🇵🇹🇭
」

こちらはいかがでしょうか:
🇯🇵🇹🇭1970年代のバンコクに、こんな日本人が築いたホテルがあったとは…!
「アマリンホテル」と「ニューアマリンホテル」、そして伝説のレストランバー「サニーシャトー」。
戦後の混乱を生き延びた松田嘉久氏の壮絶な人生と、日タイビジネスの礎を築いた物語に心打たれました。
今や誰も知らない歴史の断片が、こうして語り継がれるのは本当に貴重ですね。
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