第4章-1 戦後のバンコク 西野順治郎 列伝 53 バンブアトン収容所 その1

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戦後すぐ日本人が収容されたバンブアトンキャンプ(日本人会提供)
戦後すぐ日本人が収容されたバンブアトンキャンプ(日本人会提供)

終戦と共に日本と各国との外交関係は断絶させられ、在タイ日本大使館の全ての機能は9月11日に閉鎖され、大使館員は山本熊一大使以下約182名(男子71名、女子85名、子供26名)で、9月14日から旧ペッブリー通りの、大使館公邸と隣接していた2階建ての日泰文化会館内に軟禁されました。

一般邦人は隣組(注:連絡網のような役割を担っていた)により、9月17日午前12時から外出禁止、自宅軟禁となり10月初めにバンブアトン収容所に移送されました。

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西野さんが書いた様子は以下の通りです。

「バンブアトンキャンプに収容された頃は、ちょうど雨季の最中であり、その年は例年より降水量が多かったのでキャンプ一帯の水田地帯は見渡す限り水浸しになっている。

キャンプの周囲には鉄条網が張り巡らされており、要所要所には連合国側の指令を受けたタイの警察官が警備に当たっている。キャンプはニッパ椰子の葉と竹で作られた幾棟かの長屋から成っており、長屋と長屋の間には1枚板の橋が設けられている。

それぞれの長屋には、5メートル平方位の幾つかの大部屋に区切られている。そして、各部屋にはそれぞれ3~4家族が雑居させられている。

水道はもちろん井戸もないので、飲料水としては各長屋の前に置かれている水瓶(みずがめ)の中にクリークの水を汲み入れ、それに明礬(みようばん)を投じて雑物を沈殿させた後、上部の水をとって煮沸(しゃふつ)して飲んでいると聞かされた」

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大峡(おおば)一男氏の紹介

ここで、この収容所でリーダー役を務めた元日本人会長の大峡(おおば)一男氏についてふれましょう。彼は日本人会報誌「クルンテープ」で「バンブアトンの思い出」として記録を残しています。

大峡会長は、1958年に日本人会理事に就任して、1961年より1967年まで6年間日本人会長を務め、その任期中にアユタヤ日本人村の跡地、カンチャナブリ慰霊塔、日本人納骨堂の保全維持に尽しています。

また、日本人第一回シャム移民18名の霊を祭るケンコイ慰霊碑を建立、その間日タイ親善に尽力されたとしてタイ政府から勲章を受けています。

そして、1968年に日本に帰国しています。

入れ替わりに‘西野さんが日本人会理事に就任しています。この時西野さんは51歳でタイトーメンの次長職でした。

西野さんは、大峡さんの後任会長と目されて就任したようです。

さらに、大峡さんと西野さんの関わりは日本人会70周年記念での「座談会」で歓談しています。
このことは、後日改めて紹介します。

更に、大峡氏については、JCC(商工会議所)の理事に、1958年から1967年まで就任しています。丸紅とトーメンという同業の商社所属でしたが、西野さんは10歳年上の大峡さんを一目置いていました。

個人的な話になりますが、著者が来タイしてからある席で大峡さんにあった事があります。出しゃばらず、控え目ながらも「芯のある人」と感じました。

(次回号へ続く)

著者紹介: 小林 豊  2022年10月5日 タイ自由ランド掲載

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