第3章-6 チェンマイ副領事 西野順治郎列伝㉑
1941年8月、西野さんはサイゴンでチェンマイ勤務の辞令を受け取り、同9月に原田忠一郎領事と共に同地に赴任しました。 しかし、原田領事は11月初めから病気療養のため、バンコクに出たままであったので、西野さんは領事代理に任命され太平洋戦争の開戦を迎えました。 よって実質的には24歳の西野さんが領事として任務を遂行して来ました。 なお、当時領事館はホアイケーウ通りの現在のセントラルデパートの所にあったようです。 この領事館は、軍隊がチェンマイからミャンマーに進撃する場所として重要視されていたのでしょう。 開戦の日まで領事館に居た清水書記官は、実は陸軍参謀本部派遣の白浜少佐で開戦と共に軍服に着換えて、領事館から出て行きました。 言わずもがな、諜報活動のためで国境近くやビルマ方面に向かったのでしょう。 この変身振りについて、西野さんも驚いた様子でした。 あとは、大川周明塾出身の橋爪、友田という二人に館務補助員とタイ人スタッフだけが残りました。 (注:大川周明とは、昭和期の国家主義者・右翼思想家。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された) 西野さんは開戦と同時に、軍に代わってチェンマイ空港の拡張を命ぜられたので、県知事に依頼して大勢の農民を集めて人海戦術で突貫工事を行っています。 当時は重機械がなかったので、テニスコート用の石製のローラーを人力で引っ張り滑走路を固めたのです。
加藤 隼戦闘隊
西野さんが生前チェンマイ勤務の時の加藤隼戦闘隊について話してくれました。 尋ねないのに自ら話を持ち出すと言う事は、この話は深く記憶に残っていて話さずには居られない心境だったからでしょう。 さて具体的に話を進めましょう。 第64戦隊(隊長:加藤建夫中佐)が昭和17年3月初めチェンマイに駐屯しました。この頃は戦争が始まって初期の段階で、楽観ムードの時世でした。 チェンマイを訪れた彼らは、鼻息荒い性格で、我が物顔で無理難題をふっかけ、対応した大使館員を困らせました。 この戦闘隊の隊長について蛇足ながら書き加えたい。 第二次世界大戦の前半に活躍した飛行隊で、隊長は加藤建夫という人です。出身は北海道旭川市東旭川町(現在旭川市と合併)です。たまたま、高校は著者と同じ旭川東高校(当時は上川中学校)です。
(次回へ続く)
2021年6月5日 タイ自由ランド掲載