西野順治郎列伝 96 第12章- 1 – 2 西野さんと日本人会理事 2
日本人会100周年記念誌から、西野さんが活躍した当時の様子を振り返りたい。
なお、この部分を執筆したのは、元大阪外国語大学名誉教授で、同大学学長も歴任し赤木 攻氏です。以下、同記念誌からの抜粋です。
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「大峡、山本、西野時代
この基盤形成期(1960年から1980年)は20年という期間であり、それなりに長い時間である。この時期、これまでも触れたように、日本人会は二つの課題を抱えていたといえよう。
ひとつは、再発足期に取り組みが始まったものの完結しなかった「連続性の確認」の継続作業であった。
具体的に言えば、「納骨堂」「アユタヤー」「カンチャナブリー」及び「ケンコーィ」四大事業であった。
戦争で途切れた流れを戦前につなぎ、タイにおける日本人のアイデンティティーを確立せんとするこの作業は、ほぼこの時期に完結したものであった。
もう一つは子女教育の充実と最大の目的である親睦と福祉の活動基盤の整備であった。
泰日教会学校の発足とスーンウイチャイ路の新キャンパスの完成は、子女教育のひとつの高い到達であった。
また日本人会の組織そのものも大きく整備され、様々な同好会やサークルでの活動も活発化した。運動会や学芸会の開催はそうした活動の代表であり、機関紙「クルンテープ」の刊行は会員の間をつなぐ糸の役割を果たした。
つまり、日本人会が当初から抱えていたふたつの課題は、この20年間にほぼ解決され日本人会の模範ともいえるまで発展したといえよう。
こうした基盤形成の背景としてはいくつかの要因が考えられるが、やはり最大のものは会員数の増加であろう。
1960年には357名の会員であったが、1980年には2626名に達し、20年間に7倍強になっている。
会の基礎である会員数がある程度の規模を維持できなければ、会の運営そのものが危ぶまれるのが通常であるとすれば、この増加は基盤形成に大きな効果をもたらしたとみてよい。
更なる要因として、リーダーシップをあげたい。
この時期会長を務めた大峡一男、山本一、西野順治郎のリーダーシップに注目したい。 諸氏の詳細の履歴などのデータがないので、断定的な事は言えないが、少なくとも大峡と西野の両氏は戦前の在タイ経験があった。
そのため三氏には日本人会のタイにおける位置づけに深い理解があり、さらに各自の真摯な思いが加わり、リーダーシップが発揮されたと思われる。
また、山本は2年であるが、大峡は6年、西野は8年にわたって会長の任にあり、ある程度落ち着いて仕事ができた事も大きい。
そして忘れてはならないのは、再発足期から基盤形成期にかけて、実質的に日本人会を支えた「永住日本人」の存在である。タイを永住の地と考えている彼らの献身的貢献には高い評価は与えられるべきであろう。
(以下、省略)
(次回号へ続く)
2024年7月20日 タイ自由ランド掲載
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.