西野順治郎列伝 102 第12章- 1 – 8 小野雅司さんと西野順治郎さん
しかし、治外法権から外れたことで、日本人学校はタイ政府の目にさらされることになりました。
この件については、日本人の間では議論されず、もっぱら泰日協会内で議論されました。
泰日協会は、西野さんが日本人会理事に就任し、大使館がニューペッブリに移転した1968年に再開されています。
協会の再開とともに、西野さんは副会長に就任し、以来、西野さんはタイ政府からの日本人学校の許認可を得るために奔走しています。
その後、1973年に田中首相がタイを訪問した際に、タイ政府からの許認可を得ることができ、西野さんを中心とする関係者が積極的に行動しました。
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日本大使館の跡地について
また、小野会長は、ニューペッブリの日本大使館の跡地に関する問題についても語ってくれました。
現在の大使館はルンビニ公園の隣にありますが、小泉純一郎首相の時代に、ニューペッブリの跡地をどうするかという問題が浮上しました。当時、日本人会はその土地を泰日協会に譲り受けるよう運動しましたが、結果的に小泉首相の判断で民間企業に売却されることになりました。
この間、在タイ日本大使や日本の政治家への働きかけをしましたが、小泉首相の「この土地は高く売却できる」という意向にかなわなかったのです。
この話は、もちろん西野さんと関係していませんが、仮に西野さんが当時この話に関わっていれば、泰日協会が無料で譲り受け、公園になっていたのかもしれません。
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さらに、西野さんの実績を示すエピソードを紹介します。西野さんが会長及び理事を辞めた後、現地の日本人からも何人かが理事に登用されるようになりました。
それまで、日本人会の理事は日本からの駐在企業出身者が占められていましたが、西野さんが理事を辞めた後、現地組の日本人からも登用されるようになりました。
これは間違いなく、西野さんの意向によるものでしょう。
時の実力者が提案しない限り、現状が変わらないのは、いつの時代でも同じです。
その結果、バンコク週報の山本みどりさんや大丸前にあった宝石店の染谷さんなどが理事に就任しています。
最後に、西野さんの評価についてマイクを向けました。
「西野さんは戦前、大使館員として実際にタイ政府との交渉に立ち会った人で、時の摂政、プリディー・パノムヨンの自宅まで押しかけています。また、大使でなく、大使随員の通訳官として『大使はウソをつかないとやっておれない』と言い切ったこともあります。
彼は実際に体験したことを記録し、歴史に残る様な事を成し遂げた人と思います。」
取材中、小野さんの話は静かで言葉少なめですが、含蓄のある内容でした。
現在もなお、ボランティア活動を続けているとのことです。いつまでも元気で「語り部」として存在し続けてほしいと願い、この話を締めくくります。
(次回号へ続く)
2024年10月20日 タイ自由ランド掲載
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.