第8章-2 タイ駐在 西野順治郎 列伝 68 日本の商社で初めての支店
このような昼間お得意さん回り、夕方本社報告の状態が1年ほど続きましたが、1952年暮れより米受け渡し担当者として松村仁さんが着任したので、西野さんは米以外の全ての商品を受け持つ事になりました。
1953年初めより、サラデーン(ドゥシットタニー・ホテルの裏)に独立家屋を借りて事務所兼宿舎としましたが、この家は奇しくも1937年に初めてタイに着いたその日に初めて泊まった、天田(あまだ)副領事(当時)の家でした。
この頃より商売の量も日と共に増加し、駐在員は繊維機械、物資のそれぞれの担当者が着任しました。この間に戦後タイに残留して単独で専門商品の輸出を手掛けていた、木材の宮川久治氏とシードラック樹脂の勝英雄氏の協力を得て、これら商品の日本や第3国への輸出を開拓しています。
この他に、トウモロコシやひまし種子も取り扱いました。前者は後に日本が大量に買うようになりましたが、この時代にはまだ麻袋入りで300から500トンがロットでした。
一方、ひまし種子の年間の対日輸出量は21,000トン程度であったが、東棉だけで16,000トンを取り扱いました。
その後、タイ政府が外国からの投資を歓迎する方針を打ち出したので、西野さんは大手買い人であった四日市の伊藤製油の伊藤徳仁社長に、現地でひまし油を製造するように勧めましたが容認されませんでした。
その後、タイの会社はドイツから技術を導入して現地で製造するようになった為、ひまし種子の輸入は全面的に禁止になりました。この話は、後悔される出来事ですね。
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ここで、戦前、戦後のタイついて詳しい瀬戸正夫氏に、西野さんについて語ってくれた内容を紹介します。
戦後、西野さんがトーメンの社員としてバンコクに来て間もない頃、西野さんから「明日船が出発するので明日までにインボイス、パッキングリストを作成するように」と依頼を受けたのが出会いとのこと。「急な依頼でしたが、徹夜して作成した事を今でも覚えている」とのこと。
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バンコク支店再開
西野さんは、幅広い営業活動をするために、終戦と共に閉鎖したバンコク支店を早期に再開するよう本社に提言して来ました。 赴任1年にしてその機が熟し、1953年暮れに初代支店長として塩沢定雄氏(後専務取締役)が松岡財務駐在員と共に着任しました。なお、塩沢定雄氏はバンコク日本人商工会議所の初代会長に就任しています。この話は、後日紹介します。
翌年1954年1月1日を期して、ヤワラート街のバンコクユニオン銀行本店の2階に日本商社として、戦後初のバンコク支店を開設しました。(前号の写真の通り)
なお、ヤワラート街に日常品の卸問屋が集中しているサンペン市場がありこの辺(あたり)が当時ビジネスの中心でした。
(次回号へ続く)
2023年5月20日 タイ自由ランド掲載