第7章-1 トーメン時代 西野順治郎 列伝 64 東洋棉花(トーメン)入社

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東洋綿花(後のトーメン)の本社(写真はジャパンアーカイブズより)
東洋綿花(後のトーメン)の本社(写真はジャパンアーカイブズより)

なお、1950年頃より占領軍は海外の諸国に外交機関に代わる在外事務所設置を認め、また商社の渡航も容認するようになりました。

しかし、戦後の商社には充分な海外要員が育っていなかったため、多くの外務、通産省から公務員が民間商社に入り海外に出て行くケースが出ていました。

そして西野さんへも、通産省時代多くの商社から、海外要員として参加の勧誘がありました。

中でも、第一物産(後に合併して三井物産となる)の新関八洲太郎(にいぜきやすたろう)社長(戦時中三井物産バンコク支店長)と、東洋棉花(現、株式会社トーメン)の香川英史東京支店長(戦時中バンコク支店長、後にトーメン社長)から、強く入社を要請されました。

結局、西野さんは香川さんと懇意にしていたため、具体的にはバンコク勤務時代に近所に住み親しくしていたので、東洋棉花に入社する決意をしました。

また、当時三井、三菱などの商社は占領軍命令で解体させられ、数多くの小会社に分かれていた為、トーメンは1950年度の取り扱い額では、全国商社中第一位であったこともあり、それが判断の要因の一つとなりました。(注:朝鮮戦争が昭和24年6月に勃発しており、この特需による)

内定の話は入社前半年前ですが、翌年の1951年(昭和26年)4月より東洋棉花株式会社東京支店渉外部に勤務することになりました。

これより前1949年4月より、母校横浜専門が神奈川大学に昇格していますが、西野さんは米田学長からの依頼で、同大学で商業英語の講師を頼まれ、毎週4時間担当していました。

よって、講師の終わる3月を目途に、トーメンの入社は1951年4月からになった次第です。
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この頃東京での生活は、戦後の復興が遅々として進まず、誰もが耐え難きを耐え、という状況でした。
長女の清美さんが、お茶の水大学付属小学校の入学を控え、四人の家族なので多少でも広い家を、と物色していましたが、1948年初め文京区駒込林町に二間の部屋が見つかり、ここに転居しました。
しかし、この地は通勤に便利でしたが、同居人がいたので1949年暮れに中野区沼袋の小さいながら一軒家に移りました。
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話がそれますが、古くからタイに住んでいる日本人の中では、「西野さんが外務省を追い出され、トーメンという民間会社の身分に落ちぶれてタイに戻って来た」という陰口をいう人がいました。本当に、男のジェラシーは醜いものですね。

人の口には戸が立てられぬ、という諺がありますが、事実を知らず噂話が一人歩きすることに西野さんは、うんざりしていました。

(次回号へ続く)

著者紹介: 小林 豊  2023年4月5日 タイ自由ランド掲載

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