第3章-29 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 45 終戦と辻 参謀長

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第3章-29 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 45 終戦と辻 参謀長

第3章-29 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 45 終戦と辻 参謀長

辻 政信参謀長(出典ウィキペディア)
辻 政信参謀長(出典ウィキペディア)

1945年(昭和20年)8月10日、日本政府は、同盟通信社(戦後共同、時事通信社に分割)を通じ、連合国が発表した降伏条件を示すポツダム宣言を受諾する意向を伝えました。

タイの新聞は、このニュースを翌11日の朝刊で大々的に報道しました。翌12日山本熊一駐タイ日本大使は、ポツダム宣言の受諾決定をタイ政府に通告しました。これは、日泰攻守同盟条約に基づくものであったが、タイ政府は通告が遅いと不快感を示しました。これに対して山本大使は突然の決定であった、と弁明しました。もちろん、この場に西野さんも同席していました。

15日山本大使は、タイの戦争協力に対する謝意を伝える口上書を渡しました。

終戦当日の玉音放送の様子については、追ってしたためます。

終戦時の西野さんの行動について、具体的に伝記に書かれていませんが、山本大使の秘書役として共に行動したのでしょう。

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日本政府のポツダム宣言を受諾する意向を伝えた事に対し、タイ派遣軍参謀であった辻 政信大佐(後に国会議員)は「大使館の中に国賊がいる。機関銃を連れてきたから出せ」と言って飛び込んできた、とのこと。
西野さんは、山本熊一大使の前で参謀長と対決し、「タイの内閣宣伝局に対して同盟通信社のニュースは無検閲で発表してよいと伝えてある」と答え毅然とした態度を取った、とのこと。

辻参謀長は早速、事実確認のため南方総軍事司令部のあった南ベトナムのダラットに飛んでいます。
そして翌日、辻参謀長は前とは打って変わった態度で大使館を訪ね「戦争犯罪人にされる恐れがあるから大使館員にして欲しい」と申し出て来ました。

大使館では、この申し出を受け付けることが出来なかったので、世話して僧侶に変身させ、他の従軍僧と一緒にワット・リアップ寺に預けさせました。この時西野さんは立ち会っています。

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ワット・リアップ寺について一言。

昭和10年に、王宮と中華街にはさまれたワット・ラーチャブラナ(通称、ワット・リアップ)境内に建立された日本人納骨堂には、日本の高野山から日本僧が派遣されています。

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辻参謀長はその後、陸路中国を経由して1950年に帰国し、「潜行三千里」という本を出し、西野さんに一冊贈呈しています。

なお、7人の僧に紛れて、タイを脱出した記録は以下の本で詳細を知ることができます。

『辻政信と七人の僧―奇才参謀と部下たちの潜行三千里』(光人社NF文庫)

波乱に満ちた彼の人生は、参議院議員在職中の1961年(昭和36年)4月に視察先のラオスで行方不明となりました。

なお、当時西野さんと同僚として行動して自害した浜田参謀長については、次回より記述します。

(次回号へ続く)

著者紹介: 小林 豊  

2022年6月5日 タイ自由ランド掲載

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