第3章-14 チェンマイ 泰麺鉄道建設の手記 西野順治郎列伝29
前回に続き泰麺鉄道の話ですが、今回は西野さんの著書より「泰麺鉄道建設の手記」を 紹介します。 × × × × × × × × × × × × × × × × × × × 「太平洋戦争勃発と同時に、日本軍はビルマへの侵攻の補給線確保のため、タイとビルマ間に425キロの鉄道を建設した。 これを担当した日本軍は、タイ側から鉄道第9連隊、ビルマ側から鉄道第5連隊(軍人及び軍属約15,000人)に加え、インドネシア、マラヤ(現マレーシア)、タイから集められた現地労務者約10万人、連合国軍捕虜7 3,502人が投入され、工事は1943年1月から開始、ダイナマイトとツルハシしかない時代の、わずか1 × × ×年足らずの期間にこの鉄道を完成するという記録を打ち立てたのである。至上命令の下、困難な環境にも拘わらず、短期間に建設を完成しただけに、多くの犠牲者を出したこの鉄道が、戦後、虐待のシンボルのようにいわれ、「死の鉄道」と呼ばれるようになったのは、フィクション映画「戦場にかける橋」が各国で上映されてからで、中には日本人や日本のマスコミすら日本軍の残虐行為を誇張宣伝するに至っているのは遺憾である。 捕虜の死亡者は24,490人と記録されている、このうち2万人以上はコレラ、マラリア、熱帯病などによる病死であり、日本軍の残虐行為によるものではない。 当時捕虜管理の最高責任者は、タイ方面軍参謀長兼駐タイ大使館付武官浜田平(ひとし)中将で、私も大使館員の同僚として親しくしてもらったが、この人は常に武士道精神に基づき、戦時国際法遵守を主張し、暴力行為を禁止してその旨を各収容所に通達していた。 このため辻政信参謀のような血気にはやる部下からは「国際将軍」とまで揶揄(やゆ)されていた。私も建設期間中に現場を訪問したことがあるが、衣食の面では日本将兵と捕虜は全く同様に取り扱われていたばかりでなく、肉食の習慣のある白人には、特別に牛肉の供給もされていた。 そして全体としてよく統制されて作業能率も良く、また日本兵とタバコや食べ物を分け合ったりの人間的交流も随所で見られた。 しかし工事がジャングルの奥地に進み、戦局も悪化して補給が順調に行われなくなってくると、カビの生えた乾燥野菜などで忍ばねばならなくなっていった。これは日本兵も同様に耐えたのであるが、もともと食生活が日本人と異なる白人には日本兵よりも一層辛く感じたと想像できる。 しかし、日本兵は意識して捕虜の待遇を差別したものではない。 また20万人近い捕虜、労務者を使っての突貫工事の中には、サボタージュしたり仮病を使ったりして、監督者である日本兵に殴打(おうだ)された者もあったと思われるが、これはごく少数の例外である。 それにも拘わらず、この鉄道建設工事が日本兵の残虐の象徴のように伝えられているのは遺憾である。 1945年8月終戦の詔勅(しょうちょく)が降るや、浜田将軍は捕虜取り扱の責を取り、「碁に負けて眺むる狭庭(さにわ)花もなく」の辞世の句を残して、バンコクの公邸で自決された。」 (注:浜田将軍については追って紹介します)
(次回号へ続く)
2021年10月20日 タイ自由ランド掲載