第3章-1 留学の途 出発から洋行 西野順治郎列伝 ⑮
西野さんがタイへ出発した時は、弱冠20歳でした。 これから、バンコク留学の途に向かう話を進めましょう。
出発前の準備
東海道本線で神戸に向かう車内での話です。 特高警察が見回りに来て西野さんに職務質問しました。 それというのも、ガラガラの車内で学生服を着た若い青年が一人一等座席(グリーン車)に乗車しているなんて、不自然と疑問を持たれたからです。 特高の職務質問に対して、西野さんは、パスポートを見せて外交官としてバンコクに赴任する所で、神戸まで行く、と明解な答えをして追い払いました。特高に追いかけられた経験の憂さを晴らしたようですね。 西野さんは、大阪で下車して大阪難波の高島屋で吊るし(既成)の夏用背広一着を買いました。仕立てる時間がなかったのと、費用を節約したのでしょう。 また、学生の身分だったので、質素な身なりで満足した、と想像できます。 出発の朝、故郷を去る西野さんを母代わりになって育ててくれた祖母ヨシ(当時78才)さんは、村外れのバス停まで送ってあげました。これが祖母ヨシとの永別となりました。祖母ヨシさんは、西野さんが3歳の時から母代わりに育ててくれた人で、実母のように思っていました。 本来なら門出なので嬉しいところですが、惜別の念でいっぱいだったのでしょう。 当時として、外国へ行く事は二度と会えないかもしれない、というほどの辛い別れでした。 お兄さんの遼太郎さんは、神戸港まで見送りに行っています。当時は神戸港が日本の玄関港だったんですね。 7月7日、神戸出帆(しゅつぱん)の日本郵船欧州航路の榛名(はるな)丸(注:約1万トン)で出発し、門司、上海、基隆(キールン)、香港を経由してシンガポールへは7月21日に入港しました。 なお、基隆(キールン)は台湾の台北市近くの港です。 この船旅で、寄港した上海での様子を書いた文が見つかりましたので、紹介します。 「神戸港を出発して3日後に、門司から上海に着いた。当時上海は、国際都市として各国の居留地があり、中でも日本人租界が最大で、在留邦人では九州出身者が多かったので長崎県上海市とも言われていた。 船のタラップの周囲には、日本人旅館や旅行者のガイドが集まり客引きをしていた。 私は同じ船でローマまで行く同期入省の下村君と日本人ガイドを雇い上海1日観光旅行をした。 行く先は、自然と日本海軍陸戦隊司令部や呉しょう砲台、廟江鎮など上海事変の戦跡を引き回された」 この間、神戸からシンガポールまで2週間かかっています。
(次号へ続く)
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2021年3月5日 タイ自由ランド掲載