西野順治郎列伝 111 第12章- 1 – 17 小谷亀太郎さんと西野順治郎さん


もう一つの理由として、既に述べている通り、小谷さんは1年先輩なので西野さんは後輩として振る舞う必要がありました。
一方、松田さんとは同い年であり、「同僚」としての付き合いができる間柄でした。
正確に言うと、西野さんが3カ月間、先に生まれているので、先輩という事になります。
しかし、彼らはその時々の流れに従って交流しており、このことについて深く意識する必要はあまりなかったようです。
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立場の違いは埋められない
昔からバンコクの日本人社会では、日本からの駐在員グループと現地で生活しているグループがあり、この2つは目に見えない形で意識されていました。
これは非常に当然のことであり、駐在員は会社の指示によってタイに赴任しており、一方、現地のグループは自分の意志でタイに住み、独立した行動を取ってきました。
この関係は、駐在組は神輿(みこし)に乗る人、現地組は神輿を担ぐ人として捉えることもできます。
以上の事は、小谷さんと西野さんの関係についても当てはめる事ができるでしょう。
したがって、駐在員は一定期間で日本の本社に戻る人々、一方現地組はタイ社会に根を下ろして生活して行く人々として区別されます。
以上、脱線話になりましたが、小谷さんの話を終わりにします。
最後に、小谷さんは2000年7月10日(享年84歳)、西野さんは翌年2001年3月5日(享年84歳)と1年違いですが、享年84歳という偶然にも同じ年齢で天命を全うしています。
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最後に、小谷亀太郎さんの略歴を紹介します。
小谷さんは大正5年(1916)年大阪府南河内郡(現、堺市)で生まれ、昭和14年(1939)年頃来タイ。山本小弥太商店の番頭さんとして活躍、終戦後バンブアトン抑留所第2キャンプ第2班にお兄さんと一緒に入り、過ごしています。
昭和22年(1947)年からこの地で建設資材を商う貿易会社パシフィック&オリエント株式会社をロイヤルオーキッドホテル近くに設立し社長として活躍される傍ら、昭和28年(1953)年日本人会復活にご尽力され、設立時から1989年迄の30年間という長期にわたり、日本人会事業部長を務められました。
戦後、日本人納骨堂の堂守が不在であったため、小谷氏を中心とした仏教奉賛会が高野山真言宗総本山に管理僧の派遣を依頼して昭和36(1961)年戦後初の長敬峰師をお迎えし、約3年毎の交代で現在まで続いています。
一方ワット・リアップの日本人納骨堂に限らず、タイ国における日本人留学僧の父として慕われ、昭和35(1960)年、氏は世界仏教徒会議(WFB)事務局次長に任命され、日タイ両国の仏教界の信頼を築きました。
その功績により、1987年11月3日、日本国より勲6等光旭日賞を受賞された。
1999年7月13日、没(84歳)
(出典:タイ国日本人会100周年記念誌より)
(次回号に続く)
2025年3月5日 タイ自由ランド掲載

「バンコクの日本人社会を支えた小谷亀太郎さんの生涯。戦後の復興や日本人会の発展に尽力され、日タイの仏教界の架け橋ともなられたその功績に敬意を表します。享年84歳で天命を全うされたことも運命的ですね。#タイ #日本人会 #歴史」

²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.