バンコク怪奇譚2 タイ妖怪縦断記 ~黄色い扇風機が呼ぶ古き精霊たち~ 第2話 村に潜む影 ― ピー・ポップ

イサーン地方、コーンケーンから車で1時間ほど離れた小さな村。赤土の道が延々と続く中を、佐藤ケイは携帯電話のGPS頼りに進んでいた。画面に表示された座標は、この辺りを指している。そして「Nandee」という名前。チャイヤポーンの霊が言っていた「心優しい医師」とは、この人物のことだろう。
夕暮れが迫る頃、佐藤は村の中心部にある小さな診療所を見つけた。看板にはタイ語と英語で「村立保健所」と書かれている。建物は新しくはないが、清潔に保たれており、地域医療に献身する人の手によって大切に管理されていることが窺える。
診療所の前で車を降りると、中から慌ただしい声が聞こえてきた。タイ語で何かを説明している女性の声と、苦しそうにうめく男性の声。佐藤は躊躇ったが、扉をノックした。
「すみません、日本人ですが…」
扉が開くと、白衣を着た30代半ばの女性が現れた。疲労の色は濃いが、その瞳には強い意志力が宿っている。東京の医大を卒業後、故郷に戻って地域医療に尽くしているという雰囲気が彼女の全身から滲み出ていた。
「私はナンディーです。医師をしています」彼女は流暢な日本語で答えた。「あなたは?」
「佐藤ケイと申します。実は、この村で起きている…異常な現象について調べに来ました」
ナンディーの表情が急に緊張した。「異常な現象?まさか、あなたも最近の患者さんたちの症状について…」
その時、診察室から悲鳴にも似た声が響いた。ナンディーは急いで中に戻り、佐藤も後に続いた。診察台には20代の青年が横たわっているが、その様子は尋常ではなかった。顔色は青白く、目だけが異様にぎらぎらと光っている。まるで瞳孔の奥で何かが蠢いているかのように。
「チャイ、落ち着いて」ナンディーが青年の脈を取ろうとした瞬間、彼の目が見開かれた。その瞳孔は拡大し、奥底で赤い光がゆらめいている。
「俺じゃない…俺は俺じゃない…中に…中に誰かがいる…」チャイが呟いた声は、普段の彼とは明らかに違っていた。低く、濁り、そして何か別の存在が混じっているような二重の響きを持っていた。
佐藤は理解した。これは憑依だ。しかも、ただの霊的憑依ではない。プラカノンで体験したあの悪魔召喚装置の影響を受けた、異常な憑依現象だった。
「ナンディー先生」佐藤は静かに声をかけた。「この症状は、医学的な治療では解決できないと思います」
ナンディーは振り返った。科学的思考の持ち主である彼女にとって、そのような発言は普通なら一蹴するところだった。しかし、最近の患者たちの症状は、どんな医学知識でも説明がつかなかった。発熱、倦怠感、そして何より異常なのは、患者たちが皆「夜中に誰かに見られている気がする」「体の中に別の何かがいる」と口を揃えて訴えることだった。
「あなたは、何かご存知なんですか?」ナンディーは真剣な表情で尋ねた。
佐藤は簡潔にプラカノンでの体験を説明した。黄色い扇風機、クラウス・シュミット、悪魔召喚装置。そして、それらが引き起こしている超自然現象の連鎖について。ナンディーは科学者らしく冷静に話を聞いていたが、その表情は次第に深刻になっていった。
「信じがたい話ですが…」ナンディーは診察台のチャイを見つめた。「確かに、この症状は医学では説明がつきません。そして、あなたが言う『憑依』という現象なら…」
その時、チャイの体が突然痙攣し始めた。彼の口から、女性の声が漏れ出してきた。
「お腹が空いた…お腹が空いた…内臓を…内臓をちょうだい…」
佐藤とナンディーは身を寄せ合った。その声は明らかにチャイのものではなく、年老いた女性の声だった。しかも、その声には強烈な悲しみと飢餓感が込められていた。
「ピー・ポップ」佐藤は呟いた。「夜になると人に取り憑き、臓器を吸い取る幽霊。外見は普通の人間に見えるが、目が異様に光る…」
チャイの目が、今度は緑色に光り始めた。そして、彼の口から再び女性の声が響いた。
「私は…私はマリー…戦争で…戦争で夫を失い…飢えて…飢えて死んだ…」
ナンディーは驚愕した。「マリー?それは…この村の古老が語る、70年前に亡くなった女性の名前です」
佐藤は携帯電話を確認した。画面には再びドイツ語の文字列が流れている。今度は「Sie hungert seit 70 Jahren(彼女は70年間飢えている)」という文章だった。
「クラウスからのメッセージです」佐藤はナンディーに説明した。「この憑依現象も、あの扇風機の影響を受けています。マリーという女性の霊が、70年間の飢餓によって狂気に陥り、生者の内臓を求めるようになった」
ナンディーは医師としての使命感が燃え上がった。「それなら、彼女を救う方法があるはずです。医学的なアプローチは効かなくても、心理学的、あるいは精神医学的なアプローチなら…」
その時、診療所の外から太鼓の音が聞こえてきた。村祭りの音だった。イサーンの伝統的な祭りが、夜の帳が降りる頃に始まろうとしている。赤土の道に松明の光が踊り、村人たちの歌声が夜空に響いている。
しかし、祭りの賑やかさとは対照的に、診療所の中では異様な静寂が支配していた。チャイの体は痙攣を続け、彼の口からは断続的にマリーの声が漏れている。
「お腹が空いた…70年間…何も食べていない…」
ナンディーは決断した。「佐藤さん、協力してもらえませんか?私一人では限界があります。でも、あなたのような超自然現象に詳しい人と組めば、きっと解決策が見つかるはずです」
「もちろんです」佐藤は即答した。「でも、まず村の古老に話を聞く必要があります。マリーという女性の詳しい経歴と、彼女が亡くなった状況を知らなければ」
二人は急いで診療所を出た。祭りの会場では、色とりどりの衣装を着た村人たちが踊り狂っている。満天の星空の下、焚き火が赤々と燃え、太鼓の音が夜の静寂を破っている。しかし、佐藤とナンディーには祭りを楽しむ余裕はなかった。
村の長老の家を訪ねると、80歳を超える老人が二人を迎えてくれた。彼はマリーの話を詳しく語った。
「マリーは美しい女性でした」老人は遠い目をして語り始めた。「夫のソムサックと共に、この村で幸せに暮らしていました。しかし、第二次世界大戦中、夫は日本軍に徴用され、戦場で命を落としました」
佐藤は胸が痛んだ。日本軍の徴用。歴史の重い事実が、この超自然現象の背景にあったのだ。
「夫を失ったマリーは、悲嘆に暮れました」老人は続けた。「食事もろくに取らず、日に日に痩せ細っていきました。そして、ある夜、彼女は姿を消したのです。後に、村はずれの沼で彼女の遺体が発見されましたが…その時、彼女の体は異常に痩せ細り、まるで内臓がすべて抜き取られたかのような状態でした」
ナンディーは医師として分析した。「極度の拒食症から、最終的に餓死に至ったということですね。そして、その強烈な飢餓感が死後も残り続けている」
老人は頷いた。「それ以来、マリーの霊は村に現れるようになりました。最初は夫を探しているだけでしたが、次第に生者の内臓を求めるようになったのです。村の呪術師が彼女を鎮めようとしましたが…」
「完全には成功しなかった」佐藤は推測した。「そして、クラウスの扇風機の力が、彼女の怨念を増幅させている」
三人は急いで診療所に戻った。チャイの状態は悪化していた。彼の体温は異常に低下し、脈拍も弱くなっている。しかし、目だけは依然として緑色に光り、マリーの声が断続的に響いていた。
「もう限界です」ナンディーは焦りを露わにした。「このままでは、チャイの体が持ちません」
佐藤は携帯電話を確認した。新しいメッセージが表示されている。「Nahrung für die Seele(魂のための食べ物)」そして、その下に仏教の経典の一節がタイ語で表示されていた。
「クラウスが示しているのは…」佐藤は理解した。「物理的な食べ物ではなく、精神的な満足。マリーが本当に求めているのは、内臓ではなく、心の平安なんです」
ナンディーは医師としての知識を総動員した。「精神医学的には、強迫観念の転移ですね。本来の悲しみ(夫の死)を、別の欲求(食への執着)に置き換えている」
二人は協力してマリーとの対話を試みた。ナンディーは医師として彼女の苦痛を理解し、佐藤は超自然現象の専門家として霊との交渉を担当した。
「マリー」ナンディーは優しく語りかけた。「あなたが本当に求めているのは、内臓ではありませんね。夫のソムサックとの再会です」
チャイの体がひくつき、マリーの声が明確になった。「ソムサック…私のソムサック…どこにいるの?」
「彼は戦争で亡くなりました」佐藤は事実を告げた。「でも、あなたが生者を苦しめている間は、彼との再会はできません。彼は、あなたが安らかに眠ることを望んでいるはずです」
長い沈黙の後、マリーの声が再び響いた。今度は、怒りではなく深い悲しみに満ちていた。
「私は…私はただ…寂しかっただけ…」
ナンディーは涙を拭いた。医師として、そして一人の女性として、マリーの苦痛が痛いほど理解できた。「寂しさは、誰かを傷つけることでは癒されません。でも、許しと愛によって癒されるんです」
村の外から、祭りの歌声が聞こえてきた。それは死者を弔う古い歌だった。まるで村人たちが、マリーの魂の安息を祈っているかのように。
「聞こえますか、マリー?」佐藤は窓を開けた。「村の人たちは、あなたを忘れていません。そして、ソムサックも、きっとあなたを待っています」
チャイの体から、突然光が立ち上った。それは温かく、優しい光だった。そして、その光の中に、若い女性の姿が浮かび上がった。美しく、しかし痩せ細ったマリーの霊だった。
「ありがとう…」マリーは微笑んだ。「やっと…やっと安らげます」
光は次第に薄れ、マリーの姿も消えていった。チャイの目から緑色の光が消え、彼は深い眠りについた。その顔には、苦痛ではなく平安の表情が浮かんでいた。
ナンディーは佐藤の手を握った。「ありがとうございました。一人では、絶対にできませんでした」
佐藤は携帯電話を確認した。新しい座標が表示されている。今度はバンコク郊外。そして「Krasue」という文字。
「次はピー・クラスーです」佐藤は説明した。「女性の生首が内臓をぶら下げて夜空を浮遊する妖怪。でも、彼女もまた、クラウスの扇風機の犠牲者なのでしょう」
ナンディーは決意を固めた。「私も一緒に行きます。医師として、苦しんでいる魂を救いたい」
祭りの音が遠ざかる中、二人は新たな戦いに向けて準備を始めた。クラウス・シュミットの遺した闇を浄化する旅は、まだ始まったばかりだった。しかし、今度は佐藤一人ではない。心優しい医師ナンディーという強力な仲間を得て、彼らの戦いはより希望に満ちたものになっていた。
イサーンの夜空に星が瞬く中、二台の車がバンコクに向けて走り去っていく。背後では、マリーの魂が安らかに眠る村に、平和な夜が訪れていた。


















