西野順治郎列伝 116 田嘉久氏と西野順治郎氏 2


松田氏は西野氏と同い年で1917年の生まれです。
つまり、西野氏の方がわずか3カ月間早く生まれただけで、先輩・後輩というより、同年代の仲間として交流していたことがわかります。
特に、2人が約10年間、日本人会、JCC(バンコク日本人商工会議所)の理事に努めていたため、毎月2回顔を合わせる機会があり、親密な関係になっていました。
松田氏が日本人会の理事として西野会長を支えた話は後ほど紹介しますが、ここではJCC理事就任について述べましょう。
松田氏は1974年よりJCC理事に推薦されて就任しています。
前年、田中角栄首相の訪タイ時に窮地を救ったことで注目を浴び、西野氏が推薦により選ばれたものです。
日本からの駐在でなく、現地のオーナー社長が就任するのは異例の人事でした。松田氏は1982年までの8年間、理事を務めました。
この頃、アマリンバンコク(ホテル)の経営者として絶頂期を迎えていました。
JCC理事の任期は、平均3年が慣例ですが、二人はともに長期にわたり理事を務め、気脈を通じていました。
1992年のJCC設立30周年記念誌には、西野氏を含む4名による座残会の内容が掲載されており二人の交流の記録が残っています。
この件については、西野氏のJCC活動の項で改めて紹介します。
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1974年田中角栄元首相の訪タイの余談
当時、田中角栄首相はエラワンホテル(現:グランドハイアット エラワンバンコク)に宿泊していました。
このエラワンホテルの隣にアマリンホテルがありましたが、
学生運動の影響でエラワンホテルの出入りが制限されてしまいました。
その際、アマリンホテルの松田社長は田中首相をホテルの裏側からエラワンホテルを通じて脱出させた、という話が伝わっています。
その後、田中首相の発案で急遽(きゅうきょ)、学生との対話の場が催されました。
当初、エラワンホテルには適当な場所がなかったため、隣接するアマリンホテルを急いで準備し、対話は成功裡に終わったとされています。
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1980年頃、松田社長はホテル経営のかたわら、日本の鹿沼グループと知り合いました。
当時、松田社長はナコンナーヨック県に広大な土地を所有しており、鹿沼グループとともにサリカカントリークラブというゴルフ場建設計画をスタートさせました。
しかし、時期尚早だったため会員が集まらず、最終的には倒産に至りました。
(この頃、1980年から1987年にかけての話です)
(次回号に続く
2025年6月5日 タイ自由ランド掲載

🇯🇵✨タイ日系社会の歴史を支えた名士たちのエピソードに心が温まります。
1974年、田中角栄首相の訪タイ時に機転を利かせた松田氏の行動、
そして西野氏との深い信頼関係…。
バンコクの地で日本人としての誇りと使命感をもって尽力された姿に、
改めて敬意を抱きます。🙏🌸
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