西野順治郎列伝 107 第12章- 1 – 13 小谷亀太郎さんと西野順治郎さん
これから、戦前からタイに住み、戦後タイに永住した小谷(こたに)亀太郎さんと西野順治郎さんの交流について書き綴ります。
この二人の関係は、争いはないものの、常に緊張感に包まれていたように感じられます。
そんな結論じみた前書きで、話を進めていきましょう。
二人の交流について語る前に、彼らの間には宿命的な立場の違いがあったようです。
具体的には、小谷さんが大正5年7月23日生まれであり、一方の西野さんは大正6年8月9日生れで、小谷さんが1年先輩にあたるという事実があります。
昔は現在よりも先輩・後輩の序列がはっきりしてした時代でした。
この事を抜きにして、二人の関係を理解することは難しいでしょう。
大阪府南河内郡(現、堺市)出身の小谷さんは、商業高校を卒業後、山本小弥太商店に入社し、昭和14年頃、駐在員としてバンコクに赴任しています。ちなみに、この時西野さんは任官されており、二人の出会いがあった可能性があります。
また、タイに進出した日本軍は日本人を現地徴用しましたが、小谷さんはこの時25歳だったため、2週間の軍事訓練で放免されています。
戦後、小谷さんもバンブアトン収容所に収容されました。
約1年半の収容所生活を終えて日本人のほとんどは帰国しますが、小谷さんは特別な許可を得てタイに残留しています。
ちなみに、全収容者3600余名のうち、残留を希望したのは800余名で、実際に許可されたのは僅か146名でした。
この中に幸運に小谷さんが選ばれたのは、宝くじに当たるような確率であったと言えるでしょう。
抑留を解かれた日本人が帰国後、小谷さんは倒産していた山本貿易の商権、特に綿布関係を引き継ぐ形でパシフィック・アンド・オリエント社を設立しています。
この会社は、現在のロイヤルオーキッドシェラトンホテルの近くに位置していました。
この地域は戦後ビジネス街となり、中央郵便局があるニューロードと知られていました。
下衆(げす)の勘繰りですが、タイ政府はこの残留した日本人に対して特別な関心を持ち、日本での動向や情報収集、また交流再開を意図していたようです。
戦後、大使館設立準備のためオープンした在バンコク在外事務所の鈴木耕一所長が小谷さん対して民間におけるビジネスの現状や在り方について質問をしています。このことが、ラオス調査団の一員としてラオスを訪問するきっかけになったようです。
話を戻して、バンブアトン収容所にいた時、西野さんは大使館員としてタイ政府との窓口となり、この収容所へ何度も訪問していたため、小谷さんは西野さんの存在を忘れることはなかったでしょう。
小谷さんにとって、西野さんより1年先輩であり、在タイ年数も長かったという意識が、二人の関係に大きく影響を与えたことでしょう。
(次回号に続く)
(次回号に続く)
2025年1月5日 タイ自由ランド掲載
✨戦後のタイで永住を選んだ日本人、小谷亀太郎さんと西野順治郎さんの交流に迫る興味深い記事です!✨
先輩後輩という微妙な関係性が、戦争や収容所生活を経ても続いていたとは驚きですね。
特に、小谷さんが僅か146名しか許可されなかった残留者の一人として、どのようにしてタイ社会で成功を収めたのか、その背景に惹かれます。
次回も楽しみにしています!📖
#タイ #日本人の歴史 #戦後 #交流
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.