第9章-3 国営紡績工場建設 西野順治郎列伝72 ターンキー契約
繰り返しますが、東棉は、タイ政府と日本商社として最初のターンキー契約を締結し、一貫工場の建設を完成しました。
ちなみに「ターンキー契約」とは、プラント輸出等において、設計から機器・資材・役務の調達、建設及び試運転までの全業務を単一のコントラクターが一括して定額で、納期、保証、性能保証責任を負って請け負う契約で、プラントのキー(かぎ)を回しさえすれば稼働できる状態でオーナーに引き渡すことから、この名前が生まれました。
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工場建設について
日本からの最新の設備プラントを導入し、日本から技術者合計30人を投入して、建設は順調に進捗し工事開始後約1年で、備え付けを完了しました。
完成後も、日本人エンジニアが付いて技術指導を続け、技術移転が行われました。
同時に、ここから商権が発生して会社に利益をもたらした事は、言うまでもない事ですが…。
なお、この工場建設に西野さんの「内助の功」と言われる吉川和夫氏が活躍しました。
彼は、この工場建設の時31歳になっており、タイでの勤務が4年目になろうとしていました。
本社のルールでは、1ヵ国の勤務は4年を超えないという慣習でした。そこで、西野さんは形として帰任扱いとし、出張扱いで2年間このプロジェクトに従事させました。
彼は、日本からのエンジニア30人の世話とバンコク、東京本社との連絡に従事しました。
後に彼は、タイトーメン社長に就任し、西野会長との名コンビが生まれることになります。
この話は、後日詳しく紹介します。
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ピサヌローク県の軍隊内に工場建設
話がそれますが、 なぜピサヌローク県の軍隊敷地内に紡績工場を設立したのでしょうか。
ここで、当時の状況を説明します。
その昔、軍隊は基本的に軍隊内で設備、装備を調達して、それが不可能な場合に限り外注していました。
かつて、国防省の傘下に工業局の部局があったのは、この局で装備品を生産、調達していたからでしょう。
(注:現在は、もちろんこの部局は存在しない)
この工場で作った軍服は、すべての軍人が着用していました。
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以下、読者のためピサヌローク県へのアクセスついて蛇足ながら話します。
ピサヌローク県は、今から約100年前にはバンコクから鉄道輸送を利用していました。
しかし今から約60年位前から、日系企業の自動車産業が進出するようになると、幹線道路の建設が進み鉄道輸送から貨物輸送に取って変わるようになりました。
ちょうどこの繊維工場設立の頃は、バンコクからピサヌロークまでの道路は、片側一車線で60キロが最高時速でした。
また、ピサヌローク県に最強の軍隊を配置して、北の守りの要所として位置づけられてきました。
こんな話って、大方のタイ人はご存知でしょう。
(次回号へ続く)
2023年7月20日 タイ自由ランド掲載
西野順治郎さんは、日本の外交官、実業家、教育者であり、初代在泰日協会学校理事長、元タイ・トーメン社長・会長でした¹。1917年8月9日に生まれ、2001年3月5日に亡くなられました¹。以上の情報はWikipediaに掲載されている情報です¹。
¹: [Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E)
ソース: Bing との会話 2023/6/27
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(4) 日タイの親善に尽くした功労者、西野順治郎列伝 ① | タイ バンコク タイ自由ランド. https://jiyuland5.com/%e8%a5%bf%e9%87%8e%e9%a0%86%e6%b2%bb%e9%83%8e%e3%80%80%e5%88%97%e4%bc%9d-%e2%91%a0/.