第5章-1 外務省還帰 西野順治郎 列伝 56 日本への引き揚げ

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第5章-1 外務省還帰 西野順治郎 列伝 56 日本への引き揚げ

第5章-1 外務省還帰 西野順治郎 列伝 56 日本への引き揚げ

 舞鶴引揚記念館で展示されている辰日丸の模型「モデルシップ友の会」製作(『丹後の地名』へようこそ!HPより)
舞鶴引揚記念館で展示されている辰日丸の模型「モデルシップ友の会」製作(『丹後の地名』へようこそ!HPより)

 

戦争に敗れたので、大使館員といえども民間人と共に引き上げて来たのです。

この時、仮に特権があったとしても、西野さんはそれを利用しなかったでしょう。

西野さんは、いつでも特権を乱用する人ではなかったのです。

ここでも、「自ら計らわず」の信念を貫いたようです。(注:このフレーズは、城山三郎薯「落日燃ゆ」広田弘毅の座右の銘より)
× ×
以下、前回と一部重複する内容になりますが、おさらいということで…。
収容所生活は約9ヵ月続きましたが、翌1946年6月初め帰国実現の発表があり、それについてタイ政府との打ち合わせを進めました。この時タイとの窓口になったのが、鶴見清彦官補と西野さんです。
そして、手際よく引き揚げ船が配船されて来ました。
なお、バンブアトンに抑留されていた3,000人は、12日に約60隻に分かれて分乗してクロントイに新設された新生キャンプに向かい、そこで連合軍の検問を受けました。
6月15日、バンコクへ移動。クロントイ埠頭(ふとう)から連合軍の上陸用舟艇に分乗し、コ・シーチャン島沖に停泊していた辰日丸に乗り込みました。
その前に、タイ政府の簡単なチェックがあり、翌16日早朝6時半辰日丸は出帆しました。
船内では、1日1カップという厳しい水制限を受けながらも、人々は日本に帰れる、という希望を持って元気に航海を続けました。
しかし、この船は3,000トンばかりの戦時標準型の貨物船で、室内は暑くて、狭く、しかも食事は粗末でしたので、相当我慢したようです。
この時を振り返って「昨日までの大使館員生活とは雲泥の差であった」と西野さんは不満を述べています。
それはそうでしょう。この乗船前まで、メイド付きの「殿様暮らし」をしていたのですから。
6月30日浦賀港に入港予定が、船内でコレラ発生のため、鹿児島に引き返した、と西野さんの著書に書かれています。
そこで、家族一家は、浦賀に戻らず、7月3日大阪で下船して故郷の大阪府泉南郡東信達村に落ち着いた、と書かれています。
理由は、2歳を過ぎたばかりの長女清美さんを伴っている上、妊娠中の光枝奥さんが臨月に入っていたので、そうしたのでしょう。
なお、故郷の大阪府泉南郡東信達村は現在大阪府泉南市に昇格になっており、故郷の様子は、この列伝の最初の頃に描かれています。
故郷入りして「帰郷してまず感じたことは、ご飯の美味しいことであった」と述べています。

(次回号へ続く)

著者紹介: 小林 豊  2022年11月20日 タイ自由ランド掲載

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