第3章-28 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 44 阿波丸と西野さん その3
この阿波丸は、2,000人の外務官僚や民間人及びその家族を乗せて、戦時中の船では珍しく安全を約束されて、堂々たる照明を付けて祖国に向かったのであるが、4月1日夜アメリカ潜水艦の魚雷を受けて一瞬にして沈没したのである。
そして、アメリカ艦に救われたコック長1名だけが生き残ったのである。
4月7日の米国政府の公表では、同船は予定航路を外れており、しかも照明が不鮮明であったなどと伝えられたが、日本側はこれを否定した。そして賠償に関する交渉は戦後に持ち越されることになった。
ところが1949年4月、日本政府は国会に本件請求権を放棄する決議案を提出し、承認された。(社会党、共産党は反対)しかし、その真相に関する詳細は発表されないまま、阿波丸の歴史は閉じられたのである。
その後、当時現地で聞いた話や、戦後になって関係者が書いた書物などを総合すると、日本側とアメリカ側双方に国際法違反があったようである。
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日本側は門司出帆前に、呉軍港で戦時禁制品である飛行機200台分の機材と爆弾2,000発、弾薬500トンを積んでサイゴン(注:ホーチミン)まで運び、帰路昭南(注:シンガポール)で錫、生ゴムを積み込んでいるのである。
昭南での荷役は、夜間一般労働者を締め出して日本兵が行った由だが、連合国側のスパイの目を塞(ふさ)ぐことが出来なかったようである。一方アメリカ側では、疑わしいと思えば先ず停戦を命じ、臨検して禁制品があった場合には、非戦闘員を下船せしめてから撃沈することが戦時国際法を遵守することになるのである。この場合、何らの警告もなく魚雷を打ち込み、撃沈したのである。
従ってこの潜水艦の艦長は、その後軍法会議にかけられているが、その判決については公表されていない。現在阿波丸犠牲者の慰霊碑は、遺族会の手により東京芝の増上寺境内(けいだい)に建てられ、2,000人全員の名前が刻まれている。
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著者からの挨拶
読者の皆さんへ
いつも西野順治郎列伝をご愛読いただきありがとうございます。
まもなく、この連載も2年が過ぎようとしています。
この間、取材に応じて頂いた協力者に対してお礼申し上げます。
現在、戦前の出来事を連載中で、今後終戦、日本へ引き上げ、外務省復職、そして、トーメン社入社へと続いて行きます。
今後この連載が5年程続きますが、その間に自分の体力が維持されるか心配しています。
しかし、この列伝執筆に残りの人生を掛けて頑張りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
(次回号へ続く)
2022年5月20日 タイ自由ランド掲載