第3章-26 戦前のバンコク 西野順治郎列伝 42 阿波丸と西野さん
著者は西野順治郎さんと長い交流の中で、阿波丸のことを何度か話題として聞いたことがあります。
それだけ関心のある話として脳裏にとどまっていて、他の人に話さずにはおれなかったからでしょう。
戦争中の体験として、まさに生死を分けた出来事だったからです。
その事件は、敗戦ムードが漂う昭和20年3月頃の話です。
以下、西野さんの書き物を基に話を進めましょう。
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1945年に入り、戦局は日本にとって厳しくなり、在外に駐在する邦人は皆、帰国を希望していました。
たまたま中立国を通じ、交戦国間で双方の捕虜に慰問品を送る話が成立し、この任務を果たすため、航行の安全を約束された阿波丸が来航しました。
この船の帰路には、帰国を待っていた大勢の人たちが殺到しました。
大使館では、家族同伴者を優先的に帰国させることにしました。
しかし、西野さんは山本熊一大使より「タイ語の要員として必要」という理由で残留を要求されました。
ただし、家族だけは帰して良い、と言われました。しかし、奥さんの光枝さんは、「あなたが残るなら私も帰国しない」と言って大使館の提案を断りました。
この判断が生死の分かれ目となったのです。阿波丸は協定に反して、往路神戸で密かに南方に駐留する日本軍向けの武器弾薬を積み込み、帰路昭南(シンガポール)港で現地人を追い払い日本軍が、軍需物資である生ゴムなどを積み込んでいました。
このことがアメリカ側のスパイにより連合国の知るところとなり、阿波丸は南シナ海でアメリカの潜水艦によって撃沈され、1人を残して2,000人余りが一挙に生命を奪われました。
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以上が事件の概略ですが、戦争は酷いですね。非戦闘員が乗船しているにもかかわらず撃沈するのですから。
この船には、日本政府高官が多数乗船しており、タイでの戦略会議終了の帰途に遭遇しました。
西野さんは、この事件の概略を話した後で「日本軍が協定違反を犯して戦時物質を船積みしたため、アメリカ側に撃沈された」として日本側の非を認めていました。
なお、この事件はネットで詳細を見ることができます。
しかし、西野さんもこの事件の詳細を書き残して後世に伝えたいという意気込みを感じます。よって、この事件を次回から2回に分けて紹介しましょう。
(次回号へ続く)
2022年4月20日 タイ自由ランド掲載