西野順治郎列伝 103 第12章- 1 – 9 歴代大使と西野順治郎さん
初めに
今回は、歴代大使と西野さんとの関係についてお話したいと思います。
まずは戦前のお話に遡りますが、1940年9月に外務省から任官を受けたときの在タイ公使は村井倉松公使でしたが、西野さんと村井公使との交流は西野さんの手記には記載がありません。
しかし、翌年5月29日に着任した二見公使とは交流があったことが書かれています。 なお、在タイ公使館は1941年8月に大使館に昇格しています。
この昇格と同時期に、坪上貞二大使が着任しています。坪上大使について西野さんは「尊敬する大使」と記しており、既に本連載(第37回)で紹介しています。
西野さんは、チェンマイ副領事を1年8ヵ月務め、1943年4月に坪上大使に呼ばれてバンコク勤務、情報部への配属となっています。終戦の前年、1944年9月には山本熊一大使が着任し、終戦まで大使の秘書役としてサポートしました。
ここまでが直接大使から指導を受けた戦前の話であり、次に戦後の高度経済成長期の話へと続きます。
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戦後、西野さんはトーメンに勤め、1968年(昭和43年)51歳の時、次長職を経て、日本人会理事に就任しています。
この頃から、在タイ日本大使との交流が頻繁に始まりました。当時在任中の後宮虎郎(うしろくとらお) 大使は西野さんより3歳年上でした。
さらに、1971年4月に日本人会会長に就任した西野さんですが、当時の藤崎万里(まこと)大使は西野さんより3歳年上でした。
この二人の大使に対して、良家の出身で上品な性格だったので、さらに先輩だったということもあり、大変気を使っていたようでした。
また、西野さんは専門職員試験枠で入省したのに対し、高等文官試験枠(現在の「国家公務員試験総合職試験」)入省した大使に引け目を感じていました。
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これとは対照的に、次に着任した人見宏大使は3歳年下でもあり、西野さんとさらに馬が合って交流が続きました。
人見大使は、南ベトナム大使からの横滑り就任であったため、西野さんと共にアジア人の心を理解していました。こうして、歴代大使の中でも人見大使と最も親しく交流していたようです。なお、人見大使については、次回号で紹介します。
ところで、西野さんは1979年(昭和54年)62歳の時、8年間務めた日本人会長職を退任しています。
この頃から歴代の大使は年下となり、西野さんを崇められるようになったものの開襟を開く仲というわけにはいかなかったようです。
しかし、そんな歴代大使の中にあって、72歳の頃に着任した岡崎久彦大使との交流は格別で、執筆という共通の趣味によって、緊密な交流がありました。
このことについては、別に書き留めています。
以上、ざっくり書き留めました。
(次回号へ続く)
2024年11月5日 タイ自由ランド掲載
²: [The New York Times](https://www.nytimes.com/2018/02/03/world/asia/mount-everest-how-tall-nepal.html)
ソース: Bing との会話 2024/1/10
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.