第10章-2 タイ東レ 西野順治郎 列伝77回 工場立ち上げ
東レの森広三郎社長は、戦時中三井物産バンコク支店長を勤めており、東棉の香川英史社長、西野さんとも親交のあった仲でした。
なお、西野さんは戦前バンコクで森 社長と既に会っています。さらに、バンブアトン収容所では、森さんは第一、第二、第三キャンプの総代表になっていて、大使館側の窓口となっていた西野さんと、たびたび打ち合わせをしていました。そんな仲だったので、昔話に花が咲き、話がトントン進みました。
東棉として、綿紡績設立計画を合繊紡に切り替える条件で、合弁参加を依頼した所、東レが参加する事に同意しました。
規模として、当初の規模としては紡績12,000錘(すい)、織機4百台及び、それに見合う染色加工設備を持つ事とし、出資比率は東レ60%、東棉40%でした。
(注:当時外国人職業規制法が存在していない時なので、外資100%が認められた)
なお、当初の計画では綿紡績工場でしたが、合繊紡工場に変更しています。タイ人は薄くて乾きの良い合繊紡の方に需要があり、東レ側は安く生産できるという利点に注目していたからでしょう。
× × × ×
この話し合いの中で、森社長は社内にタイに精通した社員がいなかったため、西野さんに兼務で新会社の取締役総務部長職を依頼し、香川社長は了承しました。
この役職は、トーメンとの兼務でしたが、立ち上げまでほぼ常駐しました。その後1年間非常勤取締役に就任しています。
このようにして、THAI TORAY TEXTILE MILLS CO,LTD.(TTTM)(1963年3月10日TTTM設立)が設立され、日系進出企業として最初にBOI認可を受け1964年3月より操業を開始しました。
× × × ×
ここで、工場立地の話を進めて行きます。工場をどこにするか、染色工程は多量で良質の水を必要とするのでタイ東レの駐在員と共にバンコク周辺の適地を求め、捜し歩き、ナコムパトム県ナコンチャイシー郡に場所を選定し、政府、県、町と折衝し、無事建設に入りました。
× × × ×
工場の操業開始により、成功したプロジェクトは母校の神奈川大学宮陵会(注:同窓会)会報に掲載されました(昭和40年1月号)。
以下、その内容を紹介します。
東洋棉花バンコク支店
西野順治郎氏から近況通信
内地では師走の声を聞き寒さも日と共につのっていることと思います。
こちらでは目下皇太子殿(注:現在の上皇閣下)並びに同妃殿下をお迎えして気分も絶好の時であります。
当時の模様なり写真なりを送るようにとのお話もありましたので、ここにタイ東レ工場開場に関する写真2枚同封近況報告に代えさせていただきます。
私はその後、引き続き東洋棉花バンコク支店におりますが、本年初め東棉と東洋レーヨンは合併で当地に株式会社タイ東レと称する紡績、織布、染加工一貫の合織工場を設立し、ここに重役を兼務することになりました。
(次回号へ続く)
2023年10月5日 タイ自由ランド掲載
西野順治郎さんは、日本の外交官、実業家、教育者であり、初代在泰日協会学校理事長、元タイ・トーメン社長・会長でした¹。1917年8月9日に生まれ、2001年3月5日に亡くなられました¹。以上の情報はWikipediaに掲載されている情報です¹。
¹: [Wikipedia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E)
ソース: Bing との会話 2023/6/27
(1) 西野順治郎 – Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(2) 西野 順治郎 – Webcat Plus. http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/55292.html.
(3) 西野順治郎とは – わかりやすく解説 Weblio辞書. https://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E9%A0%86%E6%B2%BB%E9%83%8E.
(4) 日タイの親善に尽くした功労者、西野順治郎列伝 ① | タイ バンコク タイ自由ランド. https://jiyuland5.com/%e8%a5%bf%e9%87%8e%e9%a0%86%e6%b2%bb%e9%83%8e%e3%80%80%e5%88%97%e4%bc%9d-%e2%91%a0/.