西野順治郎さんの父親と兄、西野順治郎列伝 ④
父親の利一郎さんは村で律義者として通った真面目で厳しい人物として知られていた、とのこと。
徴兵検査を受けて深山重砲第4連隊に入営し、選ばれて横須賀の砲術学校に留学させられ、東京赤羽にあった砲兵工廠の研修を経て特務曹長(注:曹長の上に置いた准士官)まで昇進しました。
日露戦争には曹長(注:軍隊で下士官の中で最上級の階級)で参戦し、旅順港攻略線を勝利に導いた砲兵部隊の分隊長としての功績により、功七級金鳥勲章を授けられました。(余談になりますが、戦前戦争に行ってこの勲章を受けるのが誉(ほまれ)でした)
将来は将校に昇進を約束され、軍隊に残る事を勧められたそうですが、このような勧誘には応ぜず、任期満了と共に帰郷して農業に従事しました。身をもって体験した戦争の苦痛を、子供たちにさせたくないと強く考えていたようです。
特に兄瞭太郎を尊敬していた西野さんは、自慢の兄が小学校の教師に至る話を次の通り書いています。
「兄は、旧岸和田藩主岡子爵からの特別賞を受けて、府立岸和田中学校を主席で卒業し、担任教師からも旧制高等学校に進学するよう勧められ、本人は数学か物理学者になることを望んだ。しかし、父親に許されず天王寺師範学校(現大阪教育大学)に入学させられ小学校の教師になった」と。
当時小学校6年までの教育を受けることは兵役と同様、国民に課せられた義務でしたが、小学校の教師は6ヵ月間だけの短期現役として、軍隊入営し軍事訓練を受けるだけで以後の兵役は免除されていました。
教師以外の職は兵役を課せられていた時代ですので、数学や物理学専攻に反対した父親の気持ちが理解できます。
兄弟2人は、共に東信達尋常小学校で学びましたが、兄と6才違っていたので西野さんが小学校に入った1924年(大正13年)に、お兄さんの瞭太郎は岸和田中学校に入学しており、同じ校舎で学ぶ機会はありませんでした。
見方によっては、3歳にて母を亡くし、7歳にて姉を失い、6歳上の兄と父親という家庭環境は独立心を生ませた、と言えるでしょう。
(次号へ続く)
2020年9月20日 タイ自由ランド掲載
->その他タイ関連