【なつかしい記事】旅行会社CJL代表を務めるチエコさんはタイでは仕事一筋、60歳で独立

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旅行会社CJL代表を務めるチエコさんはタイでは仕事一筋、60歳で独立
旅行会社CJL代表を務めるチエコさんはタイでは仕事一筋、60歳で独立

 

タニヤのチャンイサラビルにある旅行会社CJL。代表を務める日本人女性のチエコさんは今年の10月で、在タイ52年を迎える女社長。

現在、74歳ですが、バリバリ現役で働いており、馴染みの常連客から、親しい友人まで、電話が毎日ひっきりなしにかかってきます。

チエコさんが来タイしたのは、1963年の22歳のとき。日本で知り合ったタイ人男性と結婚し、人生で初めての海外生活がスタートしました。

「今だと、日本人がタイに来て、タイ人と知り合って結婚するのよね」と語るチエコさん。

当時、日本には、富裕層のタイ人留学生や軍関係の人が意外にも多く住んでおり、そこで出会った日本人女性と結婚し、タイに連れて帰ってくるパターンが多かったといいますチエコさんのまわりにも、ハイソなタイ人の家に嫁いだ日本人女性がけっこういて、それ以外でタイに住む日本人といえば大企業の駐在員がほとんどで、バックパッカーなどはまだいなかったといいます。チエコさんとタイ人のだんなさんとの出会いは、大久保の喫茶店。チエコさんは徳島県出身で、当時、東京の印刷会社で働いており、だんなさんは留学生で、東京の国際学友会館で勉強していました。

お互い友達同士で来店していた喫茶店で、顔見知りとなり、チエコさんがだんなさんのお姉さんと似ているとのことで、親しくなり、付き合いが始まりました。 当時は、タイについて詳しく知る人はほとんどおらず、「サイアム」の旧名の方が知られていました。

ちょうどチエコさんが来タイする前、1963年の5月に、現在の国王が来日されたり、ボクサーで世界チャンピオンの白井義男とタイ人選手のポーン・キングビッチとの試合が注目されたりして、タイといえば、その2つのことしか知りませんでした。

結婚してタイに住むことも考えはじめましたが、当然のことながら、徳島の母が心配をしたため、チエコさんは、日本のタイ大使館に「タイはちゃんと一夫一妻制なのか」、「結婚相手のタイ人男性はどんな人なのか」と問い合わせたところ、だんなさんは、なんとカンチャナブリーの県知事の息子ということが分かりました。親しくしていたチエコさんも、そのとき初めてそれを知り、とても驚いたといいます。

だんなさんの家柄にも安心し、タイに移り住むことが決まりました。

神戸の親戚のところで、東京から出てきたチエコさんと、徳島から出てきたチエコさんの母が最後の食事会を開き、その後、10月にタイにやってきました。

当時は、まだプロペラの飛行機で、乗るのも初めてだったため、とても不安だったといいます。

外貨の持ち出しも許可がいる時代で、タイから飛行機のチケットを送ってもらい、香港経由でタイにきました。

飛行機が降り立った、ドンムアン空港は、当時は本当の田舎のど真ん中にある空港。

タイをジャングルのようなところと想像して不安だったチエコさんですが、空港には、だんなさんの父が手配した運転手付きのベンツが到着しました。タイは初めてどころか、ベンツを見るのも初めてで驚きの連続だったそうです。

当時、バンコクは、チャオプラヤー川沿いを中心に栄えていました。

チエコさんは住宅街のトンブリの300坪の一軒家に住み、家には、お手伝いさんがたくさんいて、身の回りの世話はすべてしてくれました。建物はチーク材でできたとても豪華な家ですが、当時のトイレやキッチンは、今でもタイの田舎にある旧式のものでした。

だんなさんには、イギリスに留学中の学生とチュラロンコーン大学付属の小学校の先生をしている2人の姉の他、タマサート大学で勉強している弟もいて、とても裕福でエリートばかりの家庭でした

だんなさんは、23年前に亡くなりましたが、姉や弟とはいまだに親交があり、「タイに来た当時から、現在まで、本当にみんな優しくて、よくしてくれている」とチエコさんは語ります。

タイでは、ハイソな家庭であっても、女性は男性に負けないほどバリバリ働くのは当たり前。女性の役人もたくさんいる。最初はそんなことも知らず、姉弟はとてもよくしてくれて、また、家事は一切のこと、料理もお手伝いさんの仕事をとってしまうからと、やらせてもらえない。「これから悠々自適に子育てだけをして暮らしていくのだなあ」とのんびりした気持ちで構えていると、お姉さんに「子どもが生まれたら、あなたはどこで働くの?」と聞かれ、自分も働かなければいけないのだ、とそのときに知りました。

シリラート病院で無事出産をしたチエコさんは、早速、働くことになり、たまたま、知人に紹介してもらった日系の建設会社で仕事を始めました。

この頃は、まだタイ語を話すことができず、会社の掃除のおばさんと仲良くしてタイ語を覚えたといいます。

当時、タイ人の一般給与は500~600バーツ。一方、チエコさんの給与は、日系ということもあり約3倍の1500バーツ。だんなさんの父を含め、公務員の給与はタイではそれほど高くないため、周囲の人はとても驚いたといいます。また、カンチャナブリーに住むだんなさんの父親がバンコクにやってきた際は、そのままチエコさんをベンツで送り迎えしてくれて、これも周囲の人を驚かせました。

その後は、広告代理店などをはじめ、いくつかの仕事を経験しました。

当時、よく通ったという日本料理店は、今年で75周年を迎えるシープラヤー通りの「花屋」。その他、数えるほどしか、日本料理店はありませんでしたが、その後は、「菊水」や「博多」などがオープンし、馴染みの店となりました。

また、当時、シーロム界隈には、高いビルはなく、長屋の建物がほとんどでした。一番高いビルいえば、現在のシーロムコンプレックスのところにあった8階建てのビルで、ドゥシタニホテルもオープン当初はとても大きな建物だったといいます。

52年間ずっとシーロム界隈で働いてきたチエコさんですが、実は4回地震を経験したことがあるといいます。

最初の2回は、シーロムのオフィスで、3回目は運転中の車の中で、そして、4回目はうちにいるときでした。

おそらく震度1~2くらいといいますが、地震がほとんどないタイでは、かなりの揺れに感じ、オフィスでは、タイ人スタッフがパニックになり、一斉に外に逃げ出しました。一方、日本人は、地震に慣れているため、平然とその場にいたといいます。

チエコさんが現在の旅行会社の仕事を始めたのは38歳のとき。その後は、現在までの36年間、旅行会社の仕事一筋で働いてきました。

最初は、友達が紹介してくれた旅行会社で働き始めたのがきっかけでしたが、そこで23年間働くことになり、60歳で独立しました。

現在は、長女が仕事をサポートしてくれて、馴染みのお客さんだけでなく、チエコさんとおしゃべりしたいという人や、相談ごとがあると訪れる人などたくさんおり、在タイの長いチエコさんは、ついつい仕事に関係のないことでも助けてあげてしまうといいます。

娘は、チエコさんの身のまわりの世話もしてくれて、長男にはチエコさんの孫でもある一人娘もおり、休日になると、郊外や地方に遊びに連れて行ってくれます。娘、息子、孫に囲まれて「本当に幸せ」とチエコさんはいいます。

「自慢になっちゃうけど、本当に優秀なのよ」という息子は、キング・プラモンクット工科大学を主席で卒業し、オーストラリアの奨学金で、タイのアジア工科大学院にも入学した優秀な人。大学院の卒業論文は、なんとアメリカの工業雑誌に掲載されました。

しかし、仕事で忙しかったチエコさんは、小さいころから世話をしたり教育したり、ということはあまりできず、世話はお手伝いさんがほとんどしてくれて、勉強は何もいわなくても自分から進んでやっていた。自分が毎日必死で働く姿を見て、それに影響を受けて、自らなんでもやるように育ってくれたのでは、と語ります。

すでに亡くなったタイ人のだんなさんも含め、長男も長女も自分と育ちが違うな、と感じるのは、人から指図されるのがとにかく嫌いで、なんでも人を使ってやるところ。

一方、チエコさんは、長女や長男から心配されながらも、ビルの掃除の人や、警備の人と世間話をするのも好きで、ついつい誰とでも親しくしてしまう。

徳島のごく普通の一般家庭に生まれて、偶然にもタイの裕福な家庭に嫁ぐことになり、現在は、娘、息子、孫にも囲まれている。だんなさんの父が財産もたくさん残してくれて、そして、ずっと仕事もしてきた人生。50年は本当にあっという間と語ります。

昔、占い師に占ってもらったことがあり、言われたのがお金には一生不自由しないということと、もうひとつは死ぬまで働くといわれたこと。

「つまり、働くのをやめると死んじゃうのよ」と笑うチエコさんですが、80歳まではがんばって仕事を続けたいと語りました。

 

2015年8月20日 タイ自由ランド掲載

 

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