西野順治郎列伝 137 見出し 第13章- 11 泰日協会学校の沿革と新築 2

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学校内に幼年部が併設されていた頃:日本人学校提供
学校内に幼年部が併設されていた頃:日本人学校提供

そこで、関係者協議の末、予め大使館にタイ政府内部への根回しをお願いした上で私立学校としての認可を申請することになりました。

当初、日本人会が所有者となって申請することを考えたのですが、私立学校令では外国人が学校の所有者になることが許されていませんので、泰日協会に依頼して所有者になってもらい、1972年7月、申請書を提出致しました。

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しかし、折からの反日運動に煽られてタイ政府よりは何らの回答も得られないまま月日が経過してしまいました。

この間において、泰日協会や日本大使館の関係者は何回も文部省に赴いて早期に認可が得られるよう陳情してくれました。

その間、長い間でしたが、1974年1月に田中総理(当時)が訪タイした際当時のサンヤー総理から「日本人学校は許可する」という口約束を得ることができました。

その後文部省において、許可条件の検討や事務手続き等のために更に数ヶ月を要し、同年7月14日に正式の認可証を入手しました。

この認可書には

(1)学校名を「泰日教会学校とすること」(俗称として日本語ではバンコク日本人学校とも呼ぶことにした)

(2)出来る限り早い機会に幼稚園部を本校内に移して1カ所とすること

(3)生徒数は1000名以内(現在の場所では交通混乱を避ける観点から)とすること

(4)入学を許可する生徒はタイに一時的に駐在する日本人の子弟のみに限る、などの条件が付けられてきました。

その結果、従来運動場であった場所に幼稚園部校舎を新築し、1978年8月より同部を本校内に吸収しましたが、相変わらず生徒数は増加の一途をたどっていたので、翌1979年度より幼稚園の年少組を切り捨てざるをえなくなりました。

しかも、このまま放置すれば来る5月の新学期よりは幼稚園部の年長組まで打切らねばならない状態におかれています。

従って、臨時的措置として新しい場所に新築することを条件に幼稚園部だけを3年間に限り再び日本人会構内に戻すことについて文部省の内諾を得ました。

以上述べたように、現在の学校は生徒数を収容する教室の不足という問題を抱えている以外に、老朽化した校舎そのものも立て直さなければならない時代に来ています。特に、1号館2号館はその昔、王族の住宅として建てられたもので、既に数十年を経ており、これ以上長期の使用に耐えられなくなって来ています。

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よって、学校運営委員会では1978年より建設小委員会を設けて長期的な計画を検討してきました。

それにより以前、タイ文部省の正式認可を得た直後に用地をさらに拡大して現在の運動場を完成しました。

この運動場用地は、8500平方メートルで旧敷地の7500平方メートルと共に同一の地主から借り入れしましたが、旧敷地の借地契約の満了期限は1983年8月末で、新しい運動場のほうは1975年10月から15年間で1990年9月に満了することになります。

   (次回号に続く)

 2026年4月20日 タイ自由ランド掲載

著者紹介: 小林 豊
1948年北海道生まれ、自称フリー作家、在タイ38年、神奈川大学卒業、小林株式会社創業者、西野順治郎氏と長年交流。
著者へのメール:kobayashiyu99@gmail.com
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