西野順治郎列伝 122 第12章- 9 そごうバンコク開店と西野順治郎氏

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写真キャプションラーチャプラソン交差点にあるエラワン祠:著者撮影
写真キャプション ラーチャプラソン交差点にあるエラワン祠:著者撮影

そごうバンコク店のオープン時期は、著者がちょうどタイに来た1984年頃であり、東急、伊勢丹など、日系デパートのオープンラッシュが続いていました。

すでにオープンしていたタイ大丸も含め、日本のデパートの海外進出が絶好調の時代でした。

この店の進出について、西野さんの自叙伝には、以下の通り記されています。

「オープンの2年前、アマリンプラザグループのKiat Wattanavekin氏からアマリン プラザショッピングセンター建設するに際して、日本から百貨店を招致してほしいと依頼された。そこで、そごう本社の中島福三副社長に連絡を取り、その結果、同副社長が社内を説得して、そごうの海外第一号店としてバンコク進出を決定した」とのことです。

なお、中島副社長は戦時中、日本銀行から在タイ日本大使館に出向しており、西野さんと同じ職場で同僚だったという関係にありました。

ここでも、外務省時代、特に戦時中のタイでの大使館勤務の人脈が役立っています。

また、そごうバンコク支店進出に当たっては、そごうの有名な水島廣雄会長(故人)の名前は記されていません。

普通であれば、著名な会長の名前を出して自身の存在感をアピールするところですが、西野さんは大物であればあるほど、あえて出さず、奥ゆかしく控えめな性格がにじみ出ています。

× × × ×

西野さんは、一時期そごうアマリン社の非常勤取締役を兼務していました。

アマリン プラザー側は、オフイス棟に日系のテナントを誘致するために、役員就任を依頼したのでしょう。

このことも影響し、ちょうどJCC(商工会議所)の事務所移転に際、隣のマヌニー・ビルからこのビルの15階に移転が決まっています。

当時の真相は不明ですが、西野さんが関わっていた、という見方も否定できないでしょう。

そごうにまつわる話題では、日本食堂「花屋」のことや、東京メガネのタイ進出の際してのアマリン プラザーとのレンタル契約など、懐かしいエピソードも思い出されます。

西野さんが永眠される4年前、『タイの大地と共にー星霜移り変わる半世紀』の出版記念会がアマリン プラザーで開催されたのも、西野さんの尽力によって、会場を無料で提供してもらった結果でしょう。

さらにさかのぼれば、田中首相のタイ訪問の際にもアマリン プラザーが登場しており、西野さんが生前、「そごう」と深く関わっていたことがうかがえます。

最後に、裏話をひとつ紹介します。水島会長がタイを訪れた際、西野さんは石井良一さんを会長に引き合わせています。

その結果、石井さんはそごうデパートの印刷関係を一手に引き受けることになり、大きな利益を得たといいます。石井さんはこの件に関して、西野さんに大いに恩義を感じているようです。

なお、 石井良一さんについては、「列伝第100号」で紹介済です。

                

(次回号に続く

著者紹介: 小林 豊
1948年北海道生まれ、自称フリー作家、在タイ38年、神奈川大学卒業、小林株式会社創業者、西野順治郎氏と長年交流。
著者へのメール:kobayashiyu99@gmail.com

 2025年9月5日 タイ自由ランド掲載

ペルプ 西野順治郎

 

ペルプ タイの日本人会

 

 

Tensui
Tensui


「そごうバンコク店の歴史がこんなに深いとは!西野さんの控えめな人柄と人脈の力で、日本のデパート文化がタイに根付いたんですね。読んでいて胸が温かくなりました。」


 

 

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