第3章-20 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 36 本省勤務と坪上大使 その2
戦前の在タイ日本大使館に勤務していた頃の話です。
西野さんは、尊敬できる大使として坪上貞二(ていじ)大使を挙げています。
このことについては、昭和23年に書かれた「自由シャムの横顔」の中で「誠実な人、坪上大使」の見出しで書かれています。
以下、西野さんが直接仕えた同大使について紹介します。
× × × × 坪上大使は、西野さんより33歳年上で1884年(明治17年)6月生まれです。 外務省に入り外交官の道を歩き、1941年(昭和16年)9月に公使館から大使館昇格に伴い大使に着任しています。
それから3年後の1944年9月に(60歳)東京に帰任しています。なお、今も昔もタイ大使は、上がりのポストです。
西野さんとの関わりですが、既に述べたように坪上大使が着任する前月、すなわち1941年8月に、チェンマイ領事館に転出しています。
しかし、それから1年半後の昭和18年4月坪上大使によりバンコクに呼び戻されています。
それから、坪上大使が帰任するまで大使の秘書として行動を共にしました。
特に、タイ政府要人との交渉においては必ず通訳官として立ち会いました。
この通訳官としての役を通じて、西野さんは坪上大使の人柄に接することができました。
以下、「自由シャムの横顔」により西野さんが描いた坪上大使を紹介します。
× × × × まず西野さんが褒めたたえた内容は、次の通りです。
「大使館人はもとより在留邦人からシャム人に至るまでその風格に接する人は皆挙(こぞ)ってほめ慕い「神様」というあだ名を以て親しんでいた。そればかりではない。大使は常に正しい理論を堅持する人であった」 そして、外交官として交渉する態度について次のとおり表しています。
「昔から外交官は、二枚舌でなければならないと言われて来た。
しかし真の外交はそんなものではない。
嘘をつけば必ず、ばれる事実が現れる事はわかりきったことである。
それでも嘘をついていては、個人ばかりでなくその代表する国の信用を失うに至り長い目で見る時、真実の意見を交換した方が良かった、という日が来るに違いない。
しかし恒久の世界平和を期するためには各国代表が率直な意見を吐露(とろ)して心の底から相談してゆかなければならない。
こうして、お互いの立場を認め合った時真に妥協と協力が生まれるのである。
その場逃れのお世辞や偽りは、何時か爆発するに違いない。
しかし、坪上大使ばかりでなく日本の過去の外交は嘘の多い外交であった。
これは外交官の非ではなく、外交の自主性が認められていなかった為である」と書かれています。
また当時の状況として、軍部の力が強すぎて正しい判断ができなかった、と記述しています。
「しかるに、日本外交官の多くは本国政府へ意見具申はおろか、自分の本意でないことでも盲目的な本国独裁者の命に服さなければならなかった。これが今日の悲劇をもたらした重大原因であろう」 更に、坪上大使の話が続きます。
(次回号へ続く)
2022年1月20日 タイ自由ランド掲載