バンコク怪奇譚2 タイ妖怪縦断記 ~黄色い扇風機が呼ぶ古き精霊たち~ 第1話 空飛ぶ夜の影 ― ピー・クラハーン

バンコクから北へ車で3時間。中部の農村地帯に入ると、文明の喧騒は次第に遠ざかり、代わりに自然の静寂が支配的になってくる。佐藤ケイは運転席で汗ばんだシャツの襟を緩めながら、夜道に広がるヤシ畑を見つめていた。
プラカノン運河での悪夢のような体験から一か月。あの黄色い扇風機が引き起こした超自然現象は、佐藤の日常を根底から覆していた。元ナチス科学者クラウス・シュミットが遺した悪魔召喚装置との遭遇以来、彼の周りには不可解な現象が頻発していた。まるで、あの忌まわしい機械が彼の魂に何らかの印を刻み込んだかのように。
「あの時、俺は何かを見てしまったんだ」佐藤は独り言のように呟いた。アピサーと共にナコン家の屋敷で目撃した無数の黄色い扇風機。その一つ一つから漏れ出していた異界の気配。そして、時空を歪ませる禁断の力。
車を農道脇に停め、佐藤は外に出た。故郷の静寂を求めて戻ってきたはずだったが、夜風は重く、どこか不穏な気配を孕んでいる。遠くでフクロウが鳴き、ヤシの葉が風に揺れる音だけが聞こえてくる。
歩き始めてしばらくすると、頭上で何かが羽ばたく音がした。佐藤は立ち止まり、空を見上げた。月明かりに照らされた夜空に、奇妙な影が舞っている。それは明らかに鳥ではなかった。人のような形をしているが、両腕にはヤシの葉のようなものが付いており、それを羽のように使って飛んでいる。
「まさか…」佐藤の口から、信じられない言葉が漏れた。祖母から聞いた昔話が蘇る。ピー・クラハーン。ココナッツの葉を羽にして俊敏に飛ぶ小型の男性妖怪。夜空に光る目と影が恐怖感を演出する、タイの伝統的な妖怪の一種だった。
しかし、プラカノンでの体験以来、佐藤にとって「ただの迷信」は存在しなくなっていた。クラウス・シュミットの扇風機が現実と幻想の境界を破壊した今、すべての超自然現象が現実的な脅威として立ち現れていた。
妖怪は空中で旋回すると、佐藤を見下ろした。その瞳は蛍火のように緑に光り、まるで獲物を見つけた狩人のような鋭さを放っている。佐藤の背筋に冷たいものが走る。この妖怪は、明らかに彼を探していたのだ。
「何の用だ?」佐藤は空に向かって声を上げた。恐怖よりも、なぜか強烈な好奇心が湧き上がってきた。バンコクでの悪魔召喚装置との遭遇が、彼の中に眠っていた何かを目覚めさせたのかもしれない。超自然的な存在に対する感受性、あるいは…呪われた運命への受容。
ピー・クラハーンは応えるように鳴き声を上げた。それは人間の声でも動物の声でもない、この世のものとは思えない音色だった。そして、佐藤の周りを円を描くように飛び始めた。まるで何かの儀式を行っているかのように。
その時、佐藤のポケットに入れていた携帯電話が異常な音を立て始めた。電源が入っていないはずなのに、画面が明滅し、意味不明な文字列が流れている。さらに驚いたのは、その文字列がドイツ語だったことだ。クラウス・シュミットの言語。
「Ph’nglui mglw’nafh…」画面に現れた文字を佐藤は読み上げた。それは、あの古道具屋でクラウスが唱えていた呪文の一部だった。ネクロノミコンに記された、禁断の言葉。
その瞬間、ピー・クラハーンが急降下してきた。佐藤は反射的に身をかわしたが、妖怪の爪が彼の頬をかすめた。血が一筋流れる中、佐藤は妖怪の目を見つめた。そこには、単なる野生動物の本能ではない、知性と…そして深い悲しみが宿っていた。
「お前も…操られているのか?」佐藤は直感的に理解した。この妖怪は、クラウスの扇風機が解き放った闇の力に影響されているのだ。あの悪魔召喚装置は、単に異界の存在を呼び出すだけでなく、既存の超自然的存在たちにも干渉していたのである。
ピー・クラハーンは佐藤の言葉に反応するように、空中で静止した。その目の光が一瞬弱くなり、まるで本来の自分を取り戻そうとしているかのように見えた。しかし、それも束の間。再び凶暴な光を放ち、今度は佐藤に向かって突進してきた。
佐藤は必死に逃げ回りながら、頭の中で対策を練った。プラカノンでの経験から、彼はこの種の超自然現象に対処する方法をいくつか学んでいた。まず、相手の弱点を見つけること。そして、根本的な原因を断つこと。
携帯電話の画面を再び確認すると、ドイツ語の文字列が変化していた。今度は座標のような数字が表示されている。緯度と経度。そして、その下に「Hilfe」という単語。ドイツ語で「助けて」という意味だった。
「クラウスからのメッセージか?」佐藤は息を切らしながら呟いた。もしそうだとすれば、この座標の場所に何かがあるということだ。しかし、ピー・クラハーンの攻撃は激しさを増している。
農道の先に、古い小屋が見えた。佐藤はそこに向かって走った。小屋の中に入ると、意外にも人がいた。60代の女性で、薄暗い明かりの下で何かの作業をしている。
「おばあさん、助けてください!外に妖怪が!」佐藤は息を切らしながら説明した。
女性は振り返った。その顔には、深い皺と共に、長年の知恵と経験が刻まれている。「ピー・クラハーンですね」彼女は落ち着いて言った。「最近、この辺りで暴れているという噂を聞いていました」
「知っているんですか?」
「この村の守り人ですから」女性は微笑んだ。「でも、今回のピー・クラハーンは様子が違います。何かに操られているようで…」
女性は棚から古い仏像を取り出し、佐藤の前に置いた。「これは代々この村を守ってきた聖なる像です。しかし、これだけでは足りません。あなたが何を背負っているのか、教えてください」
佐藤は躊躇した後、プラカノンでの体験を簡潔に説明した。黄色い扇風機、クラウス・シュミット、悪魔召喚装置。女性は真剣に聞いていた。
「やはり…」女性は深いため息をついた。「古い予言の通りです。西方からの闇が、我々の土地の精霊たちを狂わせると」
外ではピー・クラハーンが小屋の周りを飛び回り、不気味な鳴き声を上げ続けている。窓に時折、緑に光る目が現れては消える。
「どうすれば助けられるんですか?」佐藤は尋ねた。
女性は仏像の前で何かを唱え始めた。それは仏教の経典のようだったが、ところどころにタイの古い言葉が混じっている。やがて、仏像がかすかに光を放ち始めた。
「あなたがクラウスという人物と関わりがあるなら、その因縁を断ち切る必要があります」女性は言った。「でも、それは簡単なことではありません。まず、あのピー・クラハーンを元の姿に戻してあげることから始めましょう」
女性は佐藤に護符を渡した。古い布に複雑な模様が描かれている。「これを持って外に出てください。そして、ピー・クラハーンに向かってこう言うのです。『お前の本当の名前は何だ?』と」
「本当の名前?」
「すべての精霊には本当の名前があります。それを呼んであげれば、操られた状態から解放されるはずです」
佐藤は護符を握りしめ、小屋の外に出た。ピー・クラハーンはすぐに彼を見つけ、再び攻撃の構えをとった。しかし、護符の力なのか、その動きは以前より緩慢になっている。
「お前の本当の名前は何だ?」佐藤は叫んだ。
ピー・クラハーンの動きが止まった。その目の光が揺らぎ始める。やがて、人間のような声で答えた。
「私は…私は…チャイヤポーンだ」
その瞬間、妖怪の姿が変化し始めた。ヤシの葉の羽根が消え、代わりに透明な人影が現れた。それは中年の男性の姿をしており、農民の服装をしている。
「ありがとう…」チャイヤポーンの霊は佐藤に向かって頭を下げた。「長い間、あの忌まわしい機械の力に操られていた。やっと…やっと自由になれる」
「あの扇風機の力が、ここまで及んでいたのか」佐藤は呟いた。
「それだけではない」チャイヤポーンは警告するように言った。「あの装置は、タイ全土の精霊たちに影響を与えている。より強力な妖怪たちも、同じように操られ始めている。お前は、この戦いを続けなければならない」
霊の姿は徐々に薄くなっていく。「次は、イサーンの地を訪れよ。そこで、憑依の専門家であるピー・ポップが暴れている。しかし、彼女もまた犠牲者なのだ」
「彼女?」
「ピー・ポップは女性の霊だ。そして…」チャイヤポーンの声が遠くなっていく。「彼女を救えるのは、心優しい医師だけだ」
霊の姿が完全に消えると、夜の静寂が戻ってきた。佐藤は小屋に戻り、女性に礼を言った。
「これで終わりではありませんね」女性は言った。「あなたの戦いは、まだ始まったばかりです」
佐藤は頷いた。携帯電話を確認すると、今度はイサーン地方の座標が表示されていた。そして、「Nandee」という名前。
「医師の名前か…」佐藤は呟いた。
夜が明ける頃、佐藤は再び車に乗り込んだ。イサーン地方へ向かう道のりは長い。しかし、彼にはもう迷いはなかった。プラカノンで始まった呪いの連鎖を断ち切るため、そしてクラウス・シュミットの遺した闇を浄化するため、彼は戦い続ける決意を固めていた。
農村の夜は深く、静かに彼を包み込んでいた。しかし、遠くの空には新たな不穏な影がちらついている。佐藤ケイの長い戦いは、まだ序章に過ぎなかった。



















