【タイの田舎の小さな家から】誕生日は11月27日。それでも1月7日に考えた「命日には次が来ない」という話

読了時間 1未満

誕生日は11月27日。それでも1月7日に考えた「命日には次が来ない」という話

誕生日は11月27日だ。
だから1月7日は、誕生日でも記念日でもない。

カレンダー的には、ただの年明けの一日。
タイに住んでいれば、少し空気が涼しくて、朝が静かな時期でもある。

それでも、この日にふと考えてしまった。

命日には、次が来ない。

誕生日は、毎年やって来る。
「次」があることを前提にしている日だ。
来年も、その次も、また同じ日付が巡ってくる。

でも命日は違う。
二回目の命日、三回目の命日と言いはするけれど、
それは残された側の都合で数えているだけで、
本人にとっての「次」は存在しない。

この違いが、1月7日の朝、妙に重く感じられた。


世の中には、アニバーサリーが多すぎる。

◯周年、◯日記念、◯回目。
続いていること、積み重なっていることを、
数字で証明し続けないと不安になるみたいに。

でも命日には、そういう数え方が似合わない。
命日は一度きりで、
それ以上でも以下でもない。

それなのに、生きている側は、
「何年目か」を数え続ける。

それは供養というより、
時間がちゃんと流れていると確認したいだけなのかもしれない。


ここで思い出したのが、
「時間は流れていない」という考え方だ。

これは誰か一人の決め台詞ではない。
アインシュタインの相対性理論から始まり、
現代ではカルロ・ロヴェッリのような物理学者が、
一般向けにも語っている。

相対性理論では、
時間は空間と切り離せない「時空」の一部で、
宇宙全体に共通の「今」は存在しない。

時間は川のように流れているのではなく、
過去・現在・未来は、すでに全部そこに在る
という見方が生まれる。

ロヴェッリはさらに踏み込み、
宇宙の根本には「時間そのものが存在しない」と言う。

あるのは、
出来事と出来事の関係、
変化と変化の差分だけ。


もし時間が本当に流れていないのなら、
命日には「次」が来ないのも、自然な話だ。

次が来ないのではなく、
最初から「すべてが同時に在る」だけ。

誕生日も、命日も、
人間がカレンダーの上で名前をつけているだけで、
宇宙的には、どちらも同じ一地点なのかもしれない。


そんなことを考えながら、私はちゃんみなの曲を流した。

YouTube|ちゃんみな「Anniversary」
https://www.youtube.com/results?search_query=ちゃんみな+Anniversary

🎵 Spotify|ちゃんみな「Anniversary」
https://open.spotify.com/search/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%BF%E3%81%AA%20Anniversary

いわゆるバースデーソングじゃない。
祝福一色の音楽でもない。

ちゃんみなの声には、
生きている感覚と、
どこか削られていく感じが、同時に入っている。

前に進んでいるようで、
同じ場所に立ち尽くしているような感覚。

時間が流れているようで、
実は何も進んでいないかもしれない感覚。

それが、この1月7日にはちょうどよかった。


誕生日は11月27日だ。
でも誕生日だから考えることと、
誕生日じゃない日に考えることは、少し違う。

誕生日は、
「また一年進んだ」という物語を与えてくれる。

Tensui
Tensui

でも1月7日は、
その物語から少し距離を置いて、
「本当に進んだのか?」と問い返せる日だ。


命日には、次が来ない。
誕生日には、次が来る。

でも、時間が流れていないのだとしたら、
その違いは、
人間の心が作った線にすぎないのかもしれない。

だから今日は祝わない。
数えもしない。

ただ、ちゃんみなの曲を流して、
まだここにいるという事実だけを確認する。

それで十分な1月7日だった。

未分類

Posted by NakamuraMoriyoshi