バンコク怪奇譚2 タイ妖怪縦断記 ~黄色い扇風機が呼ぶ古き精霊たち~ 第6話 火の玉と大蛇 ― ナーガ

メコン川沿い、ウドンターニーからノーンカーイへと続く雄大な流れ。東南アジア最長の河川は、夕暮れ時になると黄金色に輝き、まるで天と地を結ぶ神秘の帯のような美しさを見せる。この川には古来より、巨大な蛇神ナーガが棲むという伝説があった。
佐藤ケイ、ナンディー、ハンス・ミュラー、そしてソムウィットの四人は、メコン川を見下ろす高台に車を停めていた。ルーイでの体験から三日。新たに加わった仲間たちとの連携も、徐々に取れるようになってきていた。
「美しい川ですね」ナンディーは夕陽に照らされるメコン川を見つめながら言った。「でも、この平和な風景のどこに…」
その時、佐藤の携帯電話が振動した。画面には、これまでで最も長いメッセージが表示されている。
「Der Naga ist der Wächter des Wassers. Aber die Maschine hat sein Gleichgewicht gestört. Die Feuerbälle sind sein Schrei um Hilfe.(ナーガは水の守護者である。しかし、機械が彼のバランスを乱した。火の玉は彼の助けを求める叫びだ)」
ハンスは70年間の研究経験から分析した。「ナーガは本来、メコン川の生態系と水位を調整する自然霊だ。もし扇風機の影響でそのバランスが崩れているとすれば…」
「大変なことになります」ソムウィットが地元の知識を付け加えた。「ナーガが怒れば、洪水や干ばつが起こる。この地域の農業は壊滅的な打撃を受けるでしょう」
夜が深まると、川の対岸から奇妙な光が見え始めた。最初は小さな点だったが、やがてそれは火の玉となって夜空に舞い上がった。一つ、二つ、そして十数個。オレンジ色に輝く火の玉が、まるで生き物のように川面を舞っている。
「バン・ファイ・パヤーナーク」ソムウィットが地元の言葉で呟いた。「ナーガの火の玉…年に一度、この時期に現れる現象です。でも今年は…」
火の玉の数が異常に多い。そして、その動きには規則性がなく、まるで苦しみもがいているかのように乱舞している。
ナンディーは医師として観察した。「あの火の玉の動き…まるで痛みに苦しんでいる患者のようです」
四人は川岸に降りた。近くで見ると、火の玉はより鮮明に見える。そして、その中に巨大な影がうごめいているのが分かった。
突然、川面が大きく波立った。そして、水中から巨大な頭が現れた。それは確かに蛇の頭だったが、その大きさは想像を絶するものだった。黄金色の鱗に覆われ、目は青い宝石のように輝いている。しかし、その美しい瞳には深い苦痛が宿っていた。
「ナーガ…」佐藤は息を呑んだ。
巨大な蛇神は四人を見下ろした。その視線には敵意はなく、むしろ助けを求めるような切なさがあった。そして、人間の言葉で語りかけてきた。
「私は…私はもう…自分を制御できない…」
ナーガの声は、メコン川の水音のように深く、悲しみに満ちていた。
「何が起こっているのですか?」ナンディーが優しく問いかけた。
「機械…悪しき機械が…私の力を狂わせている」ナーガは苦しそうに答えた。「火の玉は…私の苦痛の表れ…制御できずに…川が…川が危険にさらされている」
ハンスは理解した。「扇風機がナーガの自然調整能力を混乱させているんだ。その結果、火の玉現象が異常増加し、最終的には川の生態系が破綻する」
ソムウィットは地元住民として危機感を抱いた。「この川は何百万人もの人々の生命線です。農業も漁業も、すべてメコン川に依存している」
その時、川の上流から新たな異変が起こった。水位が急激に上昇し始めたのだ。夜にも関わらず、明らかに水量が増えている。
「洪水の前兆です」ソムウィットが叫んだ。「ナーガが水位調整を失敗している!」
ナーガは苦悶の表情を浮かべた。「止められない…水が…水が溢れる…」
佐藤の携帯電話に新しい指示が表示された。「Das Gleichgewicht kann nur durch Harmonie wiederhergestellt werden(バランスは調和によってのみ回復できる)」
「調和…」佐藤は考えた。「ルーイでの体験を思い出してください。音楽と人々の心の結束が扇風機の力を相殺した」
「でも、ナーガの場合は規模が違いすぎます」ナンディーが心配そうに言った。「川全体に影響が及んでいる」
ハンスは70年間の研究から解決策を導き出した。「ナーガは自然霊だ。人工的な機械の影響を受けているなら、自然の力で中和できるはずだ」
「自然の力?」
「この地域の人々の祈りと信仰だ」ハンスは説明した。「ナーガは古来より、人々の信仰によって支えられてきた。その信仰の力を結集すれば…」
ソムウィットは即座に行動した。彼は携帯電話でメコン川沿いの各村に連絡を取り始めた。「緊急事態です。ナーガ様が苦しんでおられます。皆で祈りを捧げてください」
連絡を受けた村々では、人々が家から出てきて川岸に集まり始めた。老人も若者も、子供たちも、皆でナーガへの祈りを捧げ始めた。それは宗教を超えた、自然への感謝と愛の祈りだった。
タイ語、ラオス語、そしてカンボジア語。様々な言語で祈りが響き渡る中、メコン川沿いの数十キロにわたって、数千人もの人々が祈りを捧げていた。
その祈りの力は、確実にナーガに届いていた。巨大な蛇神の表情が徐々に穏やかになり、火の玉の動きも規則正しくなってきた。
「効果が現れています」ナンディーが希望を込めて言った。
しかし、その時、上流から巨大な影が近づいてきた。それは水中を移動する人工物のように見えた。
「あれは…」ハンスは愕然とした。「水中移動型の扇風機装置だ!クラウスの研究の最終段階だった試作品だ!」
水中から現れたのは、潜水艦のような形状をした巨大な機械だった。その中央部には、見慣れた黄色い扇風機が取り付けられている。機械は不気味な音を立てながら、ナーガに向かって進んでいる。
「あの機械が、ナーガの力を直接吸収しようとしている」ハンスは分析した。「もし成功すれば、メコン川全体が死の川になる」
ナーガは残存する力を振り絞って抵抗した。巨大な尾で機械を攻撃するが、機械は特殊な装甲で保護されている。
「私たちにできることは何ですか?」佐藤が尋ねた。
その時、予想外の援軍が現れた。川面に無数の小さな光が浮かび上がってきたのだ。それは小さなナーガたち、ナーガの子供たちだった。
「ナーガファミリー…」ソムウィットは感動した。「伝説では、大ナーガには多くの子供がいるとされている」
小さなナーガたちは協力して機械を取り囲んだ。彼らの体から発する自然の電気が、機械の電子回路を混乱させ始めた。
「今です!」ハンスが叫んだ。「皆の祈りを集中させて!」
メコン川沿いの数千人の祈りが一つになった。その力は目に見える光となって夜空に舞い上がり、大ナーガを包み込んだ。
巨大な蛇神は、ついに本来の力を取り戻した。その体から黄金の光が放射され、機械の扇風機を無力化した。機械は電力を失い、川底に沈んでいった。
水位は正常に戻り、火の玉は美しい規則正しい舞いを始めた。それは苦痛の表現ではなく、喜びと感謝の舞だった。
ナーガは四人に向かって深々と頭を下げた。「ありがとう…人間たちよ…君たちが結び付けてくれた絆によって、私は救われた」
「私たちではありません」ナンディーが謙遜した。「メコン川を愛する全ての人々の力です」
ナーガは微笑んだ。「そうだ。愛こそが最強の力だ。機械の憎しみや恐怖など、愛の前では無力に等しい」
佐藤の携帯電話に最後のメッセージが表示された。「Der Naga wird euch helfen, wenn die finale Schlacht kommt(最終決戦の時、ナーガがあなたたちを助けるだろう)」
「最終決戦?」佐藤は問いかけた。
ナーガは神託のように答えた。「クラウスの残した最後の装置がある。それは他の全ての装置を統合し、この世界を永遠の闇に変える力を持っている」
ハンスは70年間探し続けてきた答えを、ついに得た。「マスター・デバイス…クラウスの研究の最終目標だった」
「それはどこに?」ソムウィットが尋ねた。
「バンコク」ナーガは答えた。「全ての始まりの地、プラカノン運河の最深部に」
四人は顔を見合わせた。すべてはプラカノンに戻るのだ。佐藤が最初にクラウスの扇風機と遭遇した場所に。
「でも、今度は私たちだけではありません」ナンディーが力強く言った。「チャイヤポーン、マリー、マライ、ナーク、そしてナーガ…救済された魂たちが、きっと私たちを支えてくれるはずです」
ナーガは頷いた。「そうだ。君たちが蒔いた愛の種は、必ず最後に花を咲かせるだろう」
川面に静寂が戻る中、火の玉は美しく舞い続けていた。それは恐怖の象徴ではなく、希望と愛の象徴となったのだ。
四人はバンコクへの帰路につく準備を始めた。最終決戦が待っている。しかし、彼らには確信があった。愛と結束の力があれば、どんな闇も打ち破ることができる。クラウス・シュミットの70年に及ぶ呪いも、ついに終わりを迎えようとしていた。
メコン川の夜空に星が瞬く中、四人の仲間たちは最後の戦いに向けて心を一つにしていた。愛がすべてを征する。その信念を胸に、彼らの物語は最終章へと向かっていく。




















