バンコク怪奇譚2 タイ妖怪縦断記 ~黄色い扇風機が呼ぶ古き精霊たち~ 第5話 祭りと騒動 ― ピー・ター・コーン

ルーイ県、ダーンサーイ郡。タイ北東部の山間部に位置するこの小さな町は、年に一度開催される「ピー・ター・コーン祭り」で有名だった。色鮮やかな仮面をつけた村人たちが、祖先の霊に扮して踊り狂う、タイでも最も奇祭として知られるイベントである。
佐藤ケイとナンディーが町に到着したのは、祭りの最終日の夕方だった。メインストリートは既に人で溢れかえり、音楽と笑い声、そして太鼓の音が響き渡っている。巨大な仮面をつけた「ピー・ター・コーン」たちが、観光客や地元の人々と戯れながら、街中を練り歩いていた。
「すごい賑わいですね」ナンディーは興奮気味に周囲を見回した。「でも、なぜここに呼ばれたのでしょうか?」
佐藤は携帯電話を確認した。今回のメッセージは、これまでとは異なっていた。「Der Tanz der Geister verbirgt die Wahrheit(霊たちの踊りが真実を隠している)」そして、その下に不鮮明な写真。祭りの群衆の中に、何か異質なものが紛れ込んでいるようだった。
「祭りの混乱に紛れて、何かが隠されているということですね」佐藤は分析した。「でも、これまでのような直接的な妖怪の出現ではなさそうです」
二人は祭りの人波に身を任せた。ピー・ター・コーンの仮面は、確かに恐ろしげな外見をしているが、その動きには愛嬌があり、子供たちも笑いながら一緒に踊っている。この祭りは、死者を恐れるのではなく、祖先の霊と共に楽しむという、タイの死生観を象徴するものだった。
しかし、佐藤はある違和感を覚えていた。祭りの参加者の中に、明らかに動きの異なる「ピー・ター・コーン」がいるのだ。その仮面は他の参加者よりも精巧で、動きには祭りの楽しさではなく、何か別の目的があるように見えた。
「ナンディーさん、あそこを見てください」佐藤は人混みの向こうを指した。
異質な「ピー・ター・コーン」は、群衆の中を縫うように移動しながら、特定の人物に近づいている。そして、その人物と短い会話を交わした後、小さな物体を手渡しているのだ。
「何かの取引でしょうか?」ナンディーは医師らしい観察眼で状況を分析した。「でも、祭りの最中に…」
二人は慎重にその「ピー・ター・コーン」を追跡した。彼は祭りのメインエリアから離れ、町の郊外にある古い寺院へと向かっている。佐藤とナンディーは距離を保ちながら後を追った。
寺院は祭りの喧騒から隔絶された静寂に包まれていた。異質な「ピー・ター・コーン」は境内の奥へと進み、古い仏塔の陰で仮面を外した。
現れたのは、60代後半の西洋人男性だった。白髪混じりの髪、深い皺の刻まれた顔。そして、その目には狡猾な光が宿っている。佐藤は息を呑んだ。この男は、クラウス・シュミットではないかもしれないが、明らかに彼と関係のある人物だった。
男は背後から声をかけられた。「ハンス・ミュラー」
振り返ると、そこには地元の警察官が立っていた。しかし、その警察官の表情は通常の職務というより、個人的な怨恨に満ちていた。
「お前を探していたぞ」警察官はドイツ語で言った。「クラウスの手下め」
ハンス・ミュラーと呼ばれた男は苦笑した。「ソムウィット、久しぶりだな。まだ私を恨んでいるのか?」
「当然だ」ソムウィットと呼ばれた警察官は激昂した。「お前たちが村に持ち込んだあの忌まわしい機械のせいで、私の父は…」
佐藤とナンディーは隠れながら会話を聞いていた。徐々に状況が見えてきた。ハンス・ミュラーは、クラウス・シュミットの元同僚で、戦後タイに逃亡してきた元ナチス科学者の一人だった。そして、彼らが持ち込んだ「機械」というのは、間違いなく黄色い扇風機のことだった。
「ソムウィット、君の父の死は事故だった」ハンスは冷静に答えた。「我々の研究は、人類の進歩のためだったんだ」
「進歩だと?」ソムウィットは拳を握りしめた。「村人を実験台にして、多くの人を殺しておいて、それが進歩だというのか?」
ハンスはため息をついた。「過去のことを蒸し返しても仕方がない。重要なのは、クラウスの遺した扇風機を回収することだ。あれは危険すぎる」
「回収?」ソムウィットは嘲笑した。「お前が欲しいのは、あの力を再び手に入れることだろう?」
その時、佐藤の携帯電話が新しいメッセージを表示した。「Hans ist nicht der Feind(ハンスは敵ではない)」そして、詳細な説明が続いた。
ハンス・ミュラーは確かにクラウスの元同僚だったが、戦争末期にクラウスの研究の危険性を悟り、それを阻止しようとしていた人物だった。戦後、彼はタイに逃亡したのではなく、クラウスを追跡してきたのだ。そして、70年間にわたって、クラウスの遺した危険な装置を無力化しようと努力していたのである。
「なるほど…」佐藤は理解した。彼は慎重に二人の前に姿を現した。
「失礼します」佐藤は日本語で声をかけた。「私は佐藤ケイと申します。クラウス・シュミットの扇風機について調べています」
ハンスとソムウィットは驚いて振り返った。ナンディーも佐藤の後に続いて姿を現した。
「日本人?」ハンスは流暢な日本語で答えた。「どうして君たちが、クラウスのことを?」
佐藤は簡潔に、これまでの体験を説明した。プラカノンでの遭遇、各地での妖怪との対峙、そして魂の救済について。ハンスは真剣に話を聞いていた。
「やはり…」ハンスは深いため息をついた。「クラウスの扇風機は、私が想像していた以上に広範囲に影響を与えていたのか」
ソムウィットは混乱していた。「ハンス、お前は本当に扇風機を破壊しようとしているのか?」
「もちろんだ」ハンスは答えた。「私は70年間、クラウスが遺した悪夢を終わらせようと努力してきた。しかし、一人では限界があった」
ナンディーは医師として質問した。「あなたは、扇風機の仕組みを理解しているんですね?」
ハンスは頷いた。「ある程度は。あれは単なる悪魔召喚装置ではない。人間の感情、特に負の感情を増幅させ、それを利用して時空間に干渉する装置だ。クラウスは、それを兵器として利用しようとしていた」
「でも、なぜ妖怪たちに影響を与えるのですか?」佐藤は尋ねた。
「妖怪や霊というのは、人間の感情の残滓のようなものだからだ」ハンスは説明した。「特に、強い感情を持って死んだ者の魂は、扇風機の影響を受けやすい。そして、その影響で狂気に陥る」
ソムウィットは複雑な表情をしていた。「では、私の父の死も…」
「君の父は、扇風機の最初の実験の犠牲者だった」ハンスは悲しげに語った。「クラウスは、地元の人々を実験台にしたんだ。私は必死に止めようとしたが…」
その時、寺院の境内に異変が起こった。空気が重くなり、風もないのに木々が揺れ始めた。そして、祭りの音楽が急に止んだ。
「まずい」ハンスは立ち上がった。「扇風機が近くにある。そして、祭りの興奮状態が、その力を増幅させている」
町の方向から、人々の悲鳴が聞こえてきた。四人は急いで祭りの会場に向かった。
メインストリートは混乱に陥っていた。ピー・ター・コーンの仮面をつけた人々が、突然攻撃的になり、観光客や地元住民を襲い始めたのだ。しかし、攻撃している彼らの目は虚ろで、明らかに正気を失っている。
「扇風機の影響です」佐藤は叫んだ。「祭りの興奮状態が、負の感情に変換されている!」
ナンディーは医師として負傷者の手当てを始めた。「皆さん、落ち着いて!建物の中に避難してください!」
ハンスは群衆の中を探し回った。「扇風機を持っている者がいるはずだ。見つけなければ…」
その時、ソムウィットが叫んだ。「あそこだ!」
町の中央広場で、一人の男がスーツケースを開けていた。中には、見覚えのある黄色い扇風機が収まっている。男は扇風機のスイッチを入れ、不気味な笑みを浮かべていた。
「あれは…」ハンスは愕然とした。「私の助手だったフランツだ。まさか、彼がクラウスの研究を継続していたとは…」
フランツは扇風機の前で古い言葉を唱え始めた。ネクロノミコンの呪文だった。扇風機の回転は次第に速くなり、周囲の空気が歪み始めた。
「止めろ、フランツ!」ハンスは叫んだ。「その力を制御できると思っているのか?」
フランツは振り返った。「ハンス先生、あなたは臆病すぎる。この力を使えば、我々は世界を支配できるんだ!」
しかし、扇風機の力は既にフランツの制御を超えていた。祭りの参加者たちの狂気は激しさを増し、町全体が混乱に陥っている。
佐藤は携帯電話を確認した。「Musik ist der Schlüssel(音楽が鍵だ)」というメッセージが表示されている。
「音楽…」佐藤は理解した。「祭りの音楽です!ポジティブな感情で、扇風機の力を相殺できるはずです!」
ナンディーは太鼓を持った地元の音楽家を見つけた。「お願いします!祭りの音楽を演奏してください!皆の心を一つにするような、楽しい音楽を!」
音楽家は最初戸惑ったが、ナンディーの真剣な表情を見て頷いた。彼は力強く太鼓を叩き始めた。その音は、混乱の中でも人々の心に響いた。
一人、また一人と、地元の人々が音楽に合わせて歌い始めた。それは祖先を讃える古い歌だった。恐怖ではなく、愛と感謝に満ちた歌声が夜空に響いた。
扇風機の回転が不安定になり始めた。ポジティブな感情の波が、その負の力を打ち消していく。フランツは必死に呪文を唱え続けたが、人々の歌声に敵うはずもなかった。
ハンスは機会を見計らい、フランツに飛びかかった。二人は扇風機を挟んで格闘した。その結果、扇風機が地面に落ち、羽根が砕け散った。
瞬間、町に静寂が戻った。狂気に陥っていた人々は正気を取り戻し、互いを心配し合い始めた。祭りの本来の精神、愛と思いやりが戻ってきたのだ。
フランツは意識を失い、ソムウィットが彼を拘束した。ハンスは砕けた扇風機の破片を集めながら、佐藤とナンディーに語りかけた。
「君たちのおかげで、また一つ、クラウスの遺産を無力化できた」ハンスは感謝を込めて言った。「でも、まだ他にもあるはずだ」
佐藤の携帯電話に新しい座標が表示された。今度はメコン川沿い。「Naga」という文字と共に。
「次は火の玉現象ですね」ナンディーが地理を思い出しながら言った。「メコン川の神秘、ナーガの伝説…」
「ナーガは善良な存在のはずです」佐藤は考えを巡らせた。「でも、クラウスの扇風機の影響を受けているとすれば…」
ハンスは立ち上がった。「私も同行させてもらえないか?70年間の償いをする時が来たようだ」
ソムウィットも頷いた。「私も行く。父の仇を取るためではなく、これ以上犠牲者を出さないために」
四人は新たな仲間として、メコン川へ向かう準備を始めた。祭りの町には再び平和が戻り、人々は本来の祭りの精神で踊り続けていた。
色鮮やかな仮面の下で、人々は笑い合い、歌い合い、そして祖先への感謝を込めて踊っていた。それは、恐怖や憎しみではなく、愛と結束の力が最終的に勝利することを示す美しい光景だった。
クラウス・シュミットの遺した闇を浄化する戦いは続く。しかし、今度は四人の仲間が力を合わせて立ち向かう。音楽と踊り、愛と思いやりの力を武器として。




















