【タイの田舎の小さな家から】立正アクシオム論 —最後の鎖国と人類転生計画—第6話 七難の第1波 — 政治崩壊

ワット・ポー寺院の境内は、深夜にも関わらず不思議な静寂に包まれていた。黄金に輝く仏塔が月明かりに照らされ、神聖な雰囲気を醸し出している。奈々子がタクシーから降りると、すでにチャイ博士が本殿の前で待っていた。彼の表情は深刻で、何か重大な事態が起きていることを物語っていた。
「奈々子さん、無事でよかった。大変なことが起きています」
チャイ博士は急いで奈々子を本殿の奥へと案内した。観光客の立ち入らない僧侶専用の区域で、二人は向き合って座った。古文書を胸に抱いた奈々子の前で、チャイ博士はスマートフォンの画面を見せた。
「日本の政治情勢が完全に崩壊しています。自民党の分裂が正式に発表され、三つの新党が同時に結成されました。しかし、これは序章に過ぎません」
画面には、日本の各メディアが報じる衝撃的なニュースが次々と表示されていた。
「自民党分裂、戦後最大の政治危機」 「三大新党が同時結成、政界大再編へ」 「国会機能停止、憲政史上初の事態」
奈々子は息を呑んだ。日蓮の予言書に記された「自界叛逆難」が、まさに現実のものとなっていたのだ。
「さらに深刻なのは、この政治的混乱が人工的に引き起こされている可能性があることです。SNSの投稿を詳しく分析したところ、政治家の行動や発言が事前に予告されていることが判明しました」
チャイ博士は別の画面を見せた。そこには時系列に整理されたSNS投稿と、実際の政治的出来事の対照表が表示されていた。
「9月15日 23:42投稿:『派閥離反、明朝開始』」 「9月16日 08:15発生:A派閥が離党届を提出」
「9月17日 14:27投稿:『三党結成、同時発表予定』」 「9月17日 17:00発生:三つの新党が同時記者会見」
「これは偶然ではありません。何者かが政治家たちの行動を操作している、あるいは彼らの決断を事前に知る手段を持っているのです」
その時、奈々子のスマートフォンに新しい通知が届いた。例の謎の存在からのメッセージだった。
「第一段階:政治崩壊 ✓ 完了」 「自界叛逆難の成就を確認。日本国内統治機能停止」 「第二段階:天変地異の準備開始。東海地震、発生確率80%上昇」 「奈々子とチャイ、任務継続せよ。古文書の完全解読が急務」
二人は顔を見合わせた。このメッセージは、さらなる災いが迫っていることを警告していた。
「東海地震……これも予言の一部なのでしょうか?」
奈々子は古文書を開き、日蓮の秘文を再び読み上げた。
「七難至りて地は裂け、海は荒れ、人は散る」
「『地は裂け』というのは、まさに地震のことを指しているのかもしれません。そして『海は荒れ』は津波、『人は散る』は避難や移住を意味している可能性があります」
チャイ博士の分析に、奈々子は戦慄した。七百年前の予言が、現代の災害を正確に予告しているとすれば、これは単なる偶然ではない。何らかの超自然的な力、あるいは極めて高度な科学技術による計画的な行為なのではないか。
午前三時、東京では緊急事態が発生していた。首相官邸では、内閣総辞職を余儀なくされた首相が、最後の記者会見を行っていた。
「国民の皆様、この度の政治的混乱により、内閣として統治能力を失ったことを深くお詫び申し上げます。しかし、これは単なる政治的危機ではありません。我が国は未曾有の国家的危機に直面しています」
首相の言葉に、記者たちは困惑した。政治的混乱を超えた「国家的危機」とは何を指しているのか。
「詳細は申し上げられませんが、国民の生命と財産を守るため、緊急事態宣言の発令を検討しています。そして……」
首相が言葉を続けようとした時、突然記者会見場の電気が消えた。停電ではない。何者かが意図的に放送を中断させたのだ。
同じ頃、バンコクのワット・ポー寺院では、奈々子とチャイ博士が古文書の詳細な解読作業を続けていた。本殿の奥で、蝋燭の明かりに照らされながら、彼らは七百年前の暗号に挑んでいた。
「この数列の部分ですが、単純な座標だけではないようです。時間的な要素も含まれている可能性があります」
チャイ博士は拡大鏡を使いながら、古文書の数字を詳しく分析していた。
「もしもこの解釈が正しければ、『アクシオム』への意識転送は、特定の時期にのみ可能だということになります。そして、その時期は……」
「いつですか?」
「計算によれば、二十年後の特定の日。恐らく、惑星の軌道配置が最適になる時期です。しかし、それまでに地球上の人類が『七難』を乗り越えなければならない」
その時、寺院の鐘が深夜の静寂を破って鳴り響いた。時刻は午前四時。しかし、この時間に鐘が鳴ることはない。奈々子とチャイ博士は緊張した。
本殿の入り口に、複数の人影が現れた。しかし、それは政府関係者でも謎の第三勢力でもなかった。オレンジ色の僧衣を着た高僧たちだった。
「チャイ博士、そして奈々子様。お待ちしておりました」
年老いた住職が、流暢な日本語で二人に話しかけた。
「我々は七百年前から、この時を待ち続けてきました。日蓮大聖人の真の教えを守り、『アクシオムへの道』を準備するために」
奈々子は驚愕した。この寺院の僧侶たちは、古文書の存在を知っていたのだ。いや、それ以上に、彼らは「アクシオム計画」の一部だったのかもしれない。
「ここは安全な場所です。しかし、時間はありません。日本の政治崩壊は序章に過ぎない。間もなく第二の難、そして第三の難が現実となります」
住職は奈々子に向かって深く頭を下げた。
「奈々子様、あなたこそが『選ばれし者』です。人類の未来は、あなたの手に委ねられています。古文書を完全に解読し、アクシオムへの道を開いてください」
バンコクの夜明けが近づく中、奈々子は自分が巻き込まれた壮大な計画の全貌を、ようやく理解し始めていた。これは古文書の学術研究ではない。人類の生存をかけた、七百年越しの壮大なプロジェクトだったのだ。
そして日本では、政治的混乱がさらに深刻化していた。国会議事堂周辺には機動隊が配置され、事実上の戒厳状態が敷かれている。日蓮の予言した「七難」の第一波が、ついに完全な形で現実化したのである。














