第2章 3.西野順治郎氏の学生生活 西野順治郎列伝 ⑫

梯2章 3.西野順治郎氏の学生生活 西野順治郎列伝 ⑫

 

学生生活 

翌年3月の春休みに、朝比奈宗源師の紹介状を受け取り、興津清見寺(静岡県静岡市)に古川大航を訪ね、座禅を修行しながら外務省への試験勉強を開始した、と書かれています。外務省試験の一年前から集中して勉強したことがうかがえます。
 

学生生活について、1年生は宮面寮という学校直営の寮に住んでいました。大学敷地の西側、運動場に続いている場所にありました。
 

2年になってからは、寮を出て大阪の市岡商業学校出身の柴田良作(伊藤忠から東亜石油副社長となった)と二人で、上反町(かみたんまち)の丘の上にあった清水という元安田海上火災保険会社(2002年7月日産火災海上保険と合併し損害保険ジャパンとなった)の重役未亡人宅に下宿しました。
 

この地区は一軒家の家が多い閑静な住宅地で、その部屋の一部を貸していたのでしょう。
 

この上反町は東横線、反町駅から南側の丘にあり、大学まで東横線を利用して通学していました。
 

なお、柴田良作という人は、西野さんと同年齢(大正6年5月15日生まれ)、同学年でかつ大阪市出身という同郷のよしみの仲なので生涯無二の親友として付き合ったようです。
 

それは、西野さんは無駄口を叩かない性格なので、それで親しい友人を作る事は容易でなかったと想像できるからです。
 

学生寮の話に戻ります。
 

現在は、その建物は取り壊されて体育館が建てられています。よって当時の面影は微塵もありません。
 

神奈川大学から、当時の写真提供がありましたので、この場を借りでお礼申し上げます。
 

この寮から南には、すすきが茂る丘を隔てて、捜真(そうしん)女学校(私立)が見えましたが、現在この丘にも民家が密集しその女学校の姿は見られません。
 

この女学校は、いわゆるお嬢さん学校なのである時、ある人と淡い恋をしたのかもしれません。
 

ここで、神奈川大学のあゆみを紹介しましょう。
 

神奈川大学は、創立者・米田吉盛資氏が29歳の1928年に、横浜で働く勤労青年の旺盛な勉学需要に応えるために開いた横浜学院に始まります。
 

その翌年、1929年に旧制の横浜専門学校となり、1949(昭和24)年、第二次世界大戦後の学制改革により、新制の大学に移行し、現在に至っています。
      

(次号へ続く)

     

2021年1月20日 タイ自由ランド掲載

 

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