第4章-2 戦後のバンコク 西野順治郎 列伝 54 バンブアトン収容所 その2
この間、西野さんと鶴見清彦官補(後にジュネーブ国際機関大使)だけは、タイ官憲や在留邦人との連絡のため収容所に入らず、外出を許可されていました。
バンブアトン収容所へも、視察、慰問を兼ねて何回か訪問しました。
その時の話で、上からの命令で、収容所視察、慰問を兼ねて出かけたところ、口の悪いある日本人から「なんであんたは、この収容所に入らないのか」と罵られたとのこと。
タイ政府からの指示で連絡係を担当したにもかかわらず、特権階級とみなされた、とのことで非常に残念がっていました。
この話については、生前著者に愚痴をこぼすように語ってくれました。
3,000余名もの大集団を動かすのに、バンコクに当局との窓口となる連絡係が必要なことは当然でしょう。
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西野さんの駐タイ大使館時代の業績として、在留日本人3,000人余が収容所に入れられた時、大使館勤務の西野さんは収容所の日本人代表からの要望をタイ国と交渉し、食料に困ることのないように調整し、更に、翌1946年6月に貨物船辰日丸に乗船し帰国することができたという事に関わってきた、と言えるでしょう。
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タイは食料に恵まれていたので戦時中はもちろん、軟禁中も別に食べ物に困ることはなく、バンブアトン収容所では食料の配給が行われていました。
この間に、西野さんはタイに進駐した連合国軍に呼び出され、チェンマイに於ける日本憲兵の行動と辻参謀の行方について詰問されましたが、上手く答え拘留されることはありませんでした。
ここで戦後、運命的出会いをすることになる、森廣三郎氏について紹介しておきましょう。
瀬戸正夫氏のバンブアトンの思い出についての記述の中から、三井物産バンコク支店長の森廣三郎氏について触れた内容を以下の通り紹介します。
「やがてキャンプの村興し、自治運営が始まり第一、第二、第三キャンプの村の総合代表者が三井物産の森支店長に決定して、各班村長、委員も決まった」
この記述により、森支店長と西野さんはこのキャンプ内で間違いなく直接会っているでしょう。
西野さんは、大使館の代表としてたびたびキャンプを訪れていましたから。
当時の三井物産は社員40名の規模で、駐留日本軍の物資調達を一手に引き受けていました。
なお、森廣三郎氏は、終戦前から終戦後まで3年間、日本人会長の役も兼ねていました。
その事は、日本人会100年史の中で歴代会長として「22代 森廣三郎(三井物産)昭和20年から21年度、終戦時の会長として在留邦人のキャンプ移転および日本への引き上げに際し絶大なる努力をされる」と記述されています。
西野さんと会っていた事実は、戦後東レの会社がタイに進出する際に運命的な出会い、再会となります。
この話の詳細は、戦後西野さんが東洋棉花の社員として活躍する場面で紹介します。
(次回号へ続く)