第3章-30 戦前のバンコク 西野順治郎 列伝 46 浜田中将と西野順治郎氏 その①
初めに
今回、西野順治郎氏と浜田中(ひとし)中将、第39軍参謀兼タイ国日本大使館附武官について取り上げます。
戦時中のタイに於いて、浜田中将より中村明人(あけと)タイ国駐屯軍司令官の方が有名です。
なぜなら、既に書いたことですが、中村明人司令官については「メナムの残照」の筆者、トムヤンテイ女史が尊敬する軍人のモデル小堀として取り上げているからです。
しかし、西野さんは、自らの自叙伝の中で中村明人司令官については一言も触れられていません。実際の所、山本熊一大使の秘書として面識があったでしょうが…。
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二人の関わり
浜田中将については、既に泰緬鉄道建設の中で「気骨のある軍人」として以下のように描いていますが、繰り返し再度引用します。
「当時捕虜管理の最高責任者は、タイ方面軍参謀長兼駐タイ大使館付武官浜田平中将で、私も大使館員の同僚として親しくしてもらったが、この人は常に武士道精神に基づき、戦時国際法遵守を主張し、暴力行為を禁止してその旨を各収容所に通達していた。
1945年8月終戦の詔勅(しょうちょく)が降るや、浜田将軍は捕虜取り扱の責を取り、「碁に負けて眺むる狭庭(さにわ)花もなく」の辞世の句を残して、バンコクの公邸で自決された」
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ここで浜田中将について紹介します。
1985年1月(明治28年)生まれで陸軍学校を卒業していますが、タイに赴任する前に捕虜情報局長官を約1年半勤めています。
そして1944年(昭和19年)11月にタイ国駐屯軍参謀に発令され、1944年(昭和19年)12月(49歳)で第39軍参謀兼タイ国日本大使館附武官として着任しています。
(説明:当時は司令部と大使館は別々の場所に存在していましたが、浜田中将は大使館勤務)
なお、浜田中将はバンコクに赴任前に、タイに出張しており、その際カンチャナブリの鉄道建設現場を視察し、捕虜の現状について情報を収集しています。その際中村司令官と会って、捕虜問題について話し合っています。
中村明人司令官と浜田中将
中村明人司令官は、東京裁判で無罪になり生き延びたものの、浜田中将は自決されています。
また中村司令官は、戦後「ほとけの司令官―駐タイ回想録」(1958年)として書き残しております。
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自決に至る
戦争が終わった9月2日、日本軍接収の任を持って英軍イーバンス少将がドンムアンに到着したので、英語が堪能という理由で浜田中将を担当者に任命して、交渉の窓口としています。
9月8日第18方面参謀副長浜田中将、はバンコクにて在タイ連合軍地上指揮官との間で、降伏文書に調印しています。
なお、終戦1カ月前1945年7月の組織変更で第18方面軍参謀副長に昇任して終戦を迎えています。
9月15日軍関係者幹部の最後のお別れ会の催した時には、浜田中将は普段の通りの態度をとり部下に丁寧に懇意を表明していました。
そして1日置いた9月17日の早朝、ワイヤレス通りの大使館公邸にて自決されました。